江藤新平は近代司法制度を確立した人物として有名です。
明治六年政変で下野した後、不平士族の反乱の1つである佐賀の乱に加わり処刑されました。
江藤新平について、近代司法制度を確立しただけでなく、クリーンな政治を目指していました。
この記事では、江藤新平が長州藩出身の井上馨と山県有朋の汚職事件を
追及したことについて取り上げます。
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「今清盛」井上馨の権勢やいかに!?
井上馨は岩倉使節団に加わらず、留守政府のメンバーの1人でした。
岩倉使節団が帰国するまで、大蔵省の長官が留守のため事実上の長官として権勢をふるっていました。
当時、井上馨は「今清盛」と呼ばれていました。
井上馨はアメリカで外債募集をかけ、資金を調達しようと試みました。
外債募集がうまくいかなかったため、明治政府の財政は困窮します。
財政が困窮したため緊縮財政の方針を取りました。
明治6年になると江藤新平から予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されました。
結果、井上は山県有朋ともに辞職しました。
井上と山形が辞職後、岩倉使節団が帰国しました。
岩倉使節団が帰国した頃、国内では征韓論が高まっていました。
岩倉使節団は国内政治の整備を優先したため、
武力による朝鮮の開国は取りやめになりました。
その後、明治六年政変で西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らが下野しました。
薩長の権力集中を防げ!江藤新平の戦い
江藤新平はなぜ薩長の汚職事件の追及したのでしょうか。
江藤新平は民権論者として近代司法制度を整備しました。
江藤が司法卿に就任したとき、身分に関係なく
政治家の不正を訴えることができる制度を作りました。
政治家による不正の被害者が司法省に訴えました。
訴えた相手の政治家は井上馨と山県有朋で、
江藤は井上と山形の汚職体質を厳しく追及し、辞職に追い込みました。
江藤は政治家の汚職を追及し、辞職に追い込むことに成功しましたが、
新政府の大久保利通は自分も失脚させられるかもしれないと考え、
不平士族の反乱で排除しようと意識したのかもしれません。
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政治家の汚職を摘発せよ!
江藤新平は司法省達第46号による被害者からの訴えで井上馨の汚職事件摘発に踏み切りました。
井上馨の汚職事件は尾去沢鉱山事件と言います。この汚職事件の経緯は次の通りです。
戊辰戦争で南部藩は負け、賠償金を御用商人村井茂兵衛が立替えました。
村井は廃藩置県を経て大蔵省に返済を願い出ましたが、
当時井上の独裁だった大蔵省は言いがかりをつけて
尾去沢鉱山を含む村井の財産没収という暴挙に出ました。
没収された村井の財産のうち尾去沢鉱山は競売にかけられ、安値で長州の政商が落札しました。
その落札した政商は実質井上馨の個人所有であることが明らかになりました。
江藤は太政官会議で井上の逮捕を主張しますが、薩長の軍事力が支えている明治政府の現状では
逮捕は無理と言われました。井上は辞職することになりました。
山県有朋も別の汚職事件で辞職することになりました。
最終的に勝てる人には法則があるか?
ジェフリー・フェファーは自らの著書
『「権力」を握る人の法則』の中で権力者の資質を取り上げています。
資質として、決意・エネルギー・集中・自己省察・自信・共感力・闘争心を挙げています。
江藤新平については7つの資質のうち汚職事件を摘発する決意と
薩長閥への闘争心があったから摘発できたのかもしれません。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
江藤新平は井上馨と山県有朋の汚職事件の摘発に成功しました。
この汚職事件の摘発がかえって恨みを買うことになり、
佐賀の乱後、裁判で梟首の刑を科せられたことにつながったのかもしれません。
この記事の読者の中には戦後の田中角栄の後、
首相になった三木武夫を思い出した人がいるかもしれません。
ロッキード事件の摘発で、三木武夫のクリーンな政治と
江藤新平が一致するかもしれません。
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