こんにちは。コーノヒロです。前回に続き、「邪馬台国のラストエンペラー」こと、
ニギハヤヒの謎にせまっていきます。
前回では、ニギハヤヒが神武東征の黒幕だったかもしれないとお話させてもらいました。
しかし、それが事実だと、いくつかの疑問が浮上します。
今回はその疑問を解き明かしていきたいと思います。
前回記事:邪馬台国のラストエンペラーの正体を探る!仕組まれた神武東征?!
関連記事:邪馬台国最期の戦い(後編)邪馬台国滅亡と神武降臨(神武天皇)
この記事の目次
カムヤマトは「生駒の戦い」で邪馬台国軍にワザと負けた?
まず、第一の疑問として浮上するのは、最初に大和朝廷(カムヤマト軍)が
邪馬台国と刃を交えた「生駒の戦い」の結果についてです。
これは、前回の記事の最後にも問いかけた疑問点ですが、
なぜ、その「生駒の戦い」で カムヤマト軍は邪馬台国軍に大敗させられたのでしょうか?
そもそも、ニギハヤヒと裏でつながっていたのなら、
その「生駒の戦い」で、邪馬台国軍にカムヤマト軍が大敗させられることはなかったはずです。
ですが、その時にはすでに、邪馬台国の内部は、王であるニギハヤヒと
大将軍のナガスネヒコの間に亀裂が生じていた可能性もあった訳ですから、
邪馬台国の統率権は、軍事的にも、政治的にも、ナガスネヒコ大将軍に牛耳られていて、
ニギハヤヒはお飾りのような状態だったとも考えられますね。
少なくとも、大和地域の中での統率権は、という話です。
瀬戸内海は、ニギハヤヒの直轄領のようなものだったでしょう。
だからこそ、カムヤマト軍は、瀬戸内海をほぼ問題なく東へ移動して来れたのです。
大和地域では、ナガスネヒコの専横に、ニギハヤヒは怖じ気づき
何もできなかったということでしょうか。
ただ、今回は、想像、妄想を含まらせて、次のような推理をしてみました。
というのは、この戦いは、カムヤマト軍が、カムヤマト自身の思惑で
ワザと大敗するように仕組んでいたのでは?ということなのです。
考えて見てください。
「生駒の戦い」で亡くなったのは、カムヤマトの兄のイツセノミコトです。
そのイツセが死んだことによって、軍の総指揮権は完全にカムヤマトが掌握するのです。
(それまでは、イツセとカムヤマトの共同で統率していたでしょう。)
この一連の流れを見ますと、
この戦果は、はじめから仕組まれていたのではないでしょうか?と考えるのです。
つまり、カムヤマトがイツセを死なせるために、わざと大敗させた!のです。
カムヤマトが自軍の動きをニギハヤヒにリークしていた!
極論を言えば、カムヤマトがニギハヤヒと組んでイツセを殺したということです。
カムヤマトが軍の全権を掌握するためです。
その後、熊野での熊族の脅威にさらされたときに助けた何かしらの勢力、
八咫烏の登場、宇陀の地でのオトウカシ(弟宇迦斯)の協力などは、
カムヤマト軍にとっては、トントン拍子で進みます。
次々と協力者が現れ、カムヤマトを助けて、兵力増強の結果になります。
芝居がかっているような流れではないでしょうか。
はじめから、カムヤマトを助けるような力が働いていたような。
つまり、ニギハヤヒが裏で手助けした、ということではないでしょうか。
ただ、義兄のナガスネヒコの目もあって、表立っての手助けができず、
裏で影に隠れるように、コソコソとした動きをしたと考えられないでしょうか。
おそらくは、ニギハヤヒの思惑として、兄イツセよりも、
弟のカムヤマトの方が御しやすいと考えたのではないでしょうか?
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
ニギハヤヒとカムヤマトの駆け引き?
それでは、次の疑問です。
邪馬台国の最期の戦いとなった「桜井の戦い」のとき、
なぜニギハヤヒはナガスネヒコを最初から殺さなかったのでしょうか?
急に裏切るようなことをしたのでしょうか?
いくつかの推理ができますね。
例えば、それは、義理の兄への遠慮があったのではないか?
ニギハヤヒにとって、ナガスネヒコは妻の実の兄ですから。
そう考えると、ニギハヤヒには若干の迷いがあったということも考えられます。
しかし、野望あふれるニギハヤヒという人物設定で推理すると、
カムヤマトの間に駆け引きがあったかと考えるのが自然でしょうか?
ニギハヤヒにしてみれば、ナガスネヒコの尻に敷かれるのは我慢ならないが、
カムヤマトにあっさりと勝たせてしまうためにナガスネヒコを裏切ると、
今度はカムヤマトに尻に引かれる可能性があったと考えたのではないでしょうか?
だから、ギリギリまで寝返るのは引き延ばしたとも考えられるでしょうか。
または、焦らすに焦らすことで、ニギハヤヒは、カムヤマトに恩を売ったということです。
それによって、完全に制海権を握るという、見返りを獲得しようとしたということです。
それは大いにあり得ることだったのではないでしょうか?
ニギハヤヒの野望 「海の王」を目指したか?!
最後に、カムヤマト即位(神武天皇誕生)後、ニギハヤヒ一族(物部氏)の動きを見ていきます。
それを見ることでニギハヤヒの野望がより鮮明になってくるのです。
とその前に、以下の事実が浮かび上がってきましたので、ご紹介します。
奈良県天理市に、「石上神宮」があります。
ここは物部氏ゆかりの神社であり、大和朝廷の武器庫の役割も果たしていたというのです。
また、神話にも重なる話題ですが、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治したときに使った剣
「蛇の麁正」が、この石上神宮にあると伝わっています。
これは、物部氏は大和朝廷成立時の軍事の統率権を担う存在だったことを
意味しているのではないでしょうか。
つまり、物部氏は大和朝廷の初期の「征夷大将軍」的な立場だったと
いえるのではないでしょうか?
ちなみに、スサノオノミコトに退治されたヤマタノオロチの尾から出てきたのが
「草薙剣」で、それは「熱田神宮」に祀られているとのことです。
それで、最初に話を戻すと、ニギハヤヒの子は、
越(後の「越後」、「越中」、「越前」。現代の新潟と北陸地方)を平定し、
これは、島根県大田市にある「物部神社」に伝わる伝承です。
これらの伝承を事実と仮定して考えると、
ニギハヤヒ一族(物部氏)は、瀬戸内海だけでなく、
北陸、出雲、石見地域も掌握していたことになります。
つまり、日本海側の沿岸の拠点も抑えたということです。
日本列島の制海権は全て抑えたということです。
しかも、古代の大和朝廷の征夷大将軍的な立場だったならば、
ニギハヤヒ一族(物部一族)は、古代日本において、
「海の王」のような存在であったと言えるでしょう。
それは、海外貿易や外交面においても独占する立場であったということです。
古代史ライターコーノヒロの独り言
ニギハヤヒの野望とは、「神聖・邪馬台国」とか「第二帝政・邪馬台国」、
あるいは「後・邪馬台国」のような、邪馬台国の復活も目指していたのかもしれませんね。
しかし、その野望が叶わぬ事態へと発展していくのが、日本古代史なのですが、
次回は、時代を少し遡って、邪馬台国とその王族と深い縁があると言われている、
出雲の謎について迫っていきます。
出雲に邪馬台国があったという説もあるくらいです。
お楽しみに。
(了)
※次回の日本古代史は、8月1日、8月2日に掲載予定です。
お楽しみに
<参考資料>
◆『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて ―』村井康彦著(岩波新書)
◆『ヤマト王権と十大豪族の正体 』関裕二 著(PHP文庫)
◆『消えた海洋王国 吉備物部一族の正体 古代史謎解き紀行』関裕二 著(新潮文庫)
◆『ニギハヤヒ 増補新版 /「先代旧事本紀」から探る物部氏の祖神』戸矢学 著(河出書房)
◆『日本書紀 上(全現代語訳)』
宇治谷孟 著(講談社学術文庫)
◆『新訂 古事記』
(角川ソフィア文庫)
関連記事:邪馬台国滅亡の謎に迫る!なぜ滅びたの?