曹操の挙兵時代から付き従っていた古参武将・夏侯惇。夏侯惇は曹操に従って各地を転戦とした活躍していた武将ですが、もし夏侯惇が曹操に従わないで自力で群雄として独立していたらどうなっていたのでしょうか。歴史にもしは禁句ですが、今回はこのタブーを侵して妄想してみました。
この記事の目次
そもそも夏侯惇が群雄として立てる要素はあったのか【経済面】
そもそもこの妄想を始める前に夏侯惇が群雄として立てる要素があったのでしょうか。このことから考えてみたいと思います。著者は夏侯惇が群雄として独立できる要素はあったと思います。まず群雄として立つためには兵力が必要です。
兵力を集めるためにはそれなりにお金がかかるものです。この点夏侯惇の家はそれなりに財力を持っていたと思われます。なぜなら夏侯惇の家は高祖劉邦の時代に活躍した夏侯嬰と言う武将の末裔です。そのため後漢王朝時代においては一応名門と言える家柄です。
しかし夏侯惇の家にどれくらいの財力があったのか分かりませんが、夏侯惇を学ばせるくらいの財力は持っていたので、それなりに裕福な家だったと思われ、兵力を集める財力面はクリアできたのではないのでしょうか。では次に彼の能力について紹介しましょう。
夏侯惇の能力は群雄として立つ力があったのか【政治編】
夏侯惇は三国志演義ですと荒武者のようなイメージを持っている方がいるのではないのでしょうか。なぜ夏侯惇が荒武者のイメージがもたれているのか。それは夏侯惇が14歳位の時の出来事のせいです。夏侯惇は14歳頃先生について学んでいましたが、先生を馬鹿にしてきた人が現れます。夏侯惇は先生を馬鹿にしてきた人に激怒してこの人を刺し殺してしまいます。この出来事のせいで夏侯惇は荒武者のイメージを強く残してしまいますが、実はそんなに荒武者ではなく民衆の事を考えている人でした。
ここで夏侯惇が荒くれ者ではなく民衆の事を考えていたエピソードを紹介しましょう。夏侯惇は飢饉で食べ物が無くなった時、民衆のために堤防を作る作業を計画して実行。このとき夏侯惇は労働者と一緒に土を運んで堤防作りに参加します。また彼は兵士を動員して稲を植えて食べ物を作るように命令。この結果、民衆は飢饉を乗り切ることに成功するのでした。このことから夏侯惇は民衆のことを考えて政治を行うことのできる人だと思われます。
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統率する力も持っている夏侯惇
政治力もあり経済面においても不安のない夏侯惇。群雄として独立していくには申し分ないように思われます。その夏侯惇ですが、統率力も兼ね備えていました。夏侯惇は曹操の領土が拡大すると重要な拠点を任されることが多くなります。夏侯惇は重要拠点にいる多くの将軍を率いて、指導しながら守ります。このことから彼が統率力もある人だと言えるのでしょう。
独立していれば結局どうなったの??
さて夏侯惇のことを色々と紹介して来ましたが、群雄として立てる要素はあったと思います。もし夏侯惇が独立して群雄として立っていたらどうなったのでしょうか。著者の妄想ですが、たぶん早くに滅亡していたか、曹操に付き従っていたと思われます。夏侯惇の家は曹操と一緒の郷で生まれています。たぶん夏侯惇が独立するとすれば知り合いもいて兵士も集めやすい生まれ故郷で独立したはずです。
しかしこの土地には曹操がいます。曹家は夏侯惇の家よりも財力があり、兵力を集める点においては申し分ない経済力を持っています。また夏侯惇よりも曹操の方が知り合いがいっぱいいるので、もし夏侯惇が独立したとすれば、他の群雄に滅ぼされるか、曹操の勢力に結局吸収されてしまうのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
じゃ夏侯惇が生まれ故郷で独立するのではなく、違うところで独立すればいいんじゃないと考える人もいると思います。しかし見知らぬ土地で夏侯惇が独立しようとしてもたぶん無理だと思います。なぜ無理なのか。
それはその土地にも有力者と言われる人達がいて、その人たちを差し置いて、独立したとしても兵力を集めることができないからです。そのため夏侯惇が他の土地で独立するのは至難なのです。今回はレンの妄想に付き合っていただきありがとうございました。
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