平野国臣は生野の変を起こし、捕らえられて殺害された人物として評価されているだけです。平野国臣が時代を先取りした人物であることはほとんど知られていません。今回は時代を先取りした平野国臣について紹介します。
「お前は何藩の人間なんだ?」「日本人です」の先駆者
平野国臣について生野の変以外ではほとんど知られていませんが、地元の福岡市の西公園には銅像があります。銅像の前で生誕祭が開催されています。また、5年ごとに記念式典も開かれています。地元の福岡市では平野国臣は評価されている人物と言えると思います。
平野国臣について、多くの読者にとって意外なことかもしれませんが、最初に日本人という言葉を使ったことで知られています。正確には、あなたは何藩の人間かと尋ねられると、「幕府の臣でも黒田藩の臣でもない、国の臣だ」と言い切りました。国の臣とは国の家来で、日本人であることを意味します。当時、日本人と言い切った藩士はいないことから、平野は先駆者と言ってよいと思います。
遊び、音楽の先駆者
平野国臣は年少の頃から富永漸斎や坂田諸遠に師事し、尚古主義・有職故実に傾注しました。古制(天皇親政)を真似て、髪型と服装を有職故実の当時の姿にしました。総髪で、烏帽子・直垂・太刀を日常着用していました。前時代的な異装で闊歩する姿から平野は奇人変人扱いされていました。
国学・漢学の師である富永漸斎から笛を学ぶと、大変上手になりました。同輩と合奏して楽しんだと言われています。福岡藩の牢獄に入ることになりましたが、筆を与えられなかったためこよりで文字を書き、和歌と論考を残しました。福岡藩の牢獄に入っていたとき、楽器や独楽を手作りして獄中生活を楽しもうとしました。結果、手作りの楽器は没収されました。
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倒幕ではない、「討幕」の先駆者
幕末で「倒幕」や「討幕」という言葉を見ることが多いと思います。まず、「倒幕」と「討幕」の違いについて取り上げます。「倒幕」とは政権を返上させることで、徳川家は将軍から一大名となることを意味します。
血を流さない平和的な革命で、坂本龍馬らが提案した大政奉還についてはこの倒幕が当てはまります。
一方で、「討幕」とは抵抗すれば戦をしかけて徳川家を倒すことを意味します。この討幕には革命であれば流血はやむを得ないということが含まれています。平野国臣は牢屋でこより文字として知られている論考の中で、今の日本に必要なのは英断であり、国論を一致させて外国に欧米列強に立ち向かうべきだと主張しました。当時、日本では討幕派と佐幕派が対立していて、国論を二分している状態でした。平野は当時の日本人に対して外国に侵攻されたくなければ討幕という革命を起こす覚悟を持つべきだと主張しました。
コスプレの先駆者?
平野国臣はコスプレで有名な人物です。平野は烏帽子直垂や義経袴など昔の衣装を着用していました。平野はただコスプレだけで満足せず、犬追物の復活を提案するぐらい徹底していたと言われています。なお、犬追物とは犬を追って馬上から弓矢で追う武芸の1つです。犬追物を提案したことによって、平野は幽閉されました。この平野のコスプレや尚古主義については他の藩に知られるくらい有名になりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は生野の変ではない平野国臣について取り上げました。「私は日本人です」と最初に答えたのが平野国臣だったことは意外で、ほとんどの読者が驚いたと思います。日本人のアイデンティティーの原点が平野国臣であるかもしれません。
幕末の日本史で「倒幕」と「討幕」の2つの熟語が使われていますが、これまでの記事では意味の違いについては明確に区別してきませんでした。「討幕」を最初に使ったのは平野国臣であることは意外で驚いた読者がいるかもしれませんが、これまでの研究から「倒幕」と「討幕」の違いについて考えたいと思います。平野国臣についてコスプレの先駆者として紹介しました。日本史におけるコスプレの歴史についても注目したいと思います。
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