皆さんは、滋賀県の安土城跡を訪れたことはありますか?筆者は2回訪れたことがあります。「実際に天守閣が残っている松本城や彦根城と比べると、あまり魅力を感じられないのではないか」と思うかもしれません。しかし、それは違います。
筆者が初めて訪れたのは小学生のときでしたが、日本史の授業で信長のことを習った直後だったこともあり、「あれ、今でもここに信長がいるのではないか」なんて勝手に思ってしまいました。小学生の子どもがそう思ってしまうような、独特の雰囲気がある場所なのです。
石垣だけなのに圧倒的な存在感の安土城跡
安土城跡に行くには、JR安土駅を利用します。駅周辺には、信長も飲んでいたと伝えられる湧き水が今でも残っていたり、楽市楽座という名前のみやげ物店があったりと、随所で信長にちなんだものを見つけることができます。駅から25分くらい歩くと、安土城跡がある安土山のふもとに着きます。そこで、入山料700円を払うと、安土山に登ることができます。
ちなみに、安土山はけっこう急な坂道になっていて、ふもとからだんだんと上に登っていくと、森蘭丸や前田利家の屋敷跡を見ることができます。「大河ドラマなどで有名な俳優が演じている人物が、ここに住んでいたのか」などと思うと、歴史の教科書上の人物であるはずが、急に身近に感じることができます。
さらに、安土山を登っていくと、豊臣秀吉が建てたとされる信長の墓が見えてきます。ここは木が生い茂り、いつも日陰になっています。天気の良い日に安土山を登ると景色が素晴らしくとても気持ち良いのですが、この墓周辺だけはいつ訪れても、何とも言えないような雰囲気の場所です。さて、天主跡の石垣や礎石があるところまで登ると、北側からは絶景を眺めることができます。視界を遮るものは何もありません。信長や織田家家臣たちもここからの景色を眺めていたのでしょうか。
天守閣が残っている城ももちろん素晴らしいですが、観光客がたくさんいて、天守閣の写真を撮って…という楽しみ方になりがちです。安土城には、残念ながら石垣しか残っていません。しかし、訪れてみると分かる、圧倒的な存在感のある場所であり、戦国時代後半の空気を肌で感じることができるのです。
「天守閣」ではなく「天主閣」
天守閣とは、戦国時代以降のお城に見られる、象徴的な建造物です。高いところに造られたため、見張りとしての役割を果たしていました。また、派手な見た目であり、戦国武将にとって権威の象徴ともなっていました。一般的にはこの建造物は「天守閣」といいますが、安土城の場合は「天主閣」と表記します。現在でも、安土城跡の近くにある、城を再現した博物館は「安土城天主 信長の館」という名称になっています。
では、なぜ安土城だけ「天主閣」というのでしょうか?歴史作家、井沢元彦氏の著書「逆説の日本史10 戦国覇王編」によると、信長は自己神格化を目指したとあります。「天主」とは、もともと西洋のカトリックからきた言葉で、神様のことです。当時、宣教師から西洋の文化が入ってきた時代背景を考えると、当然信長は「天主」という概念を知っていたのでしょう。
実際、安土城跡にある摠見寺という信長が建立したお寺では、「安土城摠見寺にお参りすれば、誰でも長生きできる」とされていますし、安土山を登る石段には、本来であれば信仰の対象である石仏が使われています。(つまり、仏像を階段に使ってしまっているということです)
また、当時信長に謁見したルイス・フロイスも、「信長は神になろうとしている」と記しています。そうなると、安土城と摠見寺は、信長にとって神殿のような役割を果たす建物だったのでしょうか?
戦国時代ライター星野まなかの独り言
その答えは今となっては分かりませんが、安土城は庶民に公開されたこともあり、当時信長を慕っていた人も多かったのでしょう。安土城跡を訪れた筆者は、安土駅周辺に住むお年寄りは、現在でも信長のことが大好きな人が多いと感じました。
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