劉雄鳴
劉雄鳴は正史のみに登場し、三国志演義には登場せず、仙人(?) のような人物であったと言われています。
彼は三国時代に関中の軍閥の一つの長を務めていました。
関中といえば当時大勢力となっていた曹操軍と馬超率いる関中の軍閥、関中十部軍との戦いが有名ですが、彼もこの戦いに関わっていました。
今回は、正史に綴られた劉雄鳴の生涯を紹介します。
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若き日の劉雄鳴
劉雄鳴は京兆郡藍田の人で、字は”雄鳴"ですが、ここではフルネームで劉雄鳴と記述します。
張魯伝によると、彼は覆車山の麓に住んでおり、若い時から薬草の採取と狩猟に明け暮れていました。
彼は狩猟と採集のために濃い霧に包まれた山の中入り、朝から晩まで歩き回っていましたが、道を知りつくしていたのか迷うことはありませんでした。
立ちこめた濃い霧の中を自由に出入りする、その仙人の様な彼の振舞いを見て、周囲の人々は「彼は霧を起こす力を持っている」と噂するほどでした。
後に中国では、覆車山の山頂には仙人が集まると言われ、劉雄鳴がそこで道教を学んでいたという伝承が生まれました。
戦乱の中、人々に頼られる劉雄鳴
三国時代といえば戦乱真っ只中ですが、劉雄鳴が戦乱の世でどのように生きていたのでしょうか。
一九二年、霊帝死後、次代の覇権争いが起こり、先んじようとした董卓が呂布に殺害されました。
それにより事態はさらに混乱を極め、董卓の部下であった李傕と郭汜は長安を占拠し、略奪を行ったため人々は飢饉に苦しんでいました。
その時、乱を逃れた人々の中には劉雄鳴を頼って身を寄せる人も数多くいました。
その後、劉雄鳴は州郡に従属し、州郡では上表して彼を小将に推薦しました。
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馬超の襲撃!
戦乱は続き、各地で勢力が火花を散らす中、二〇〇年に官渡の戦いで曹操軍と袁紹軍との戦いが起こり、ここで勝利した曹操が大勢力を築きます。
二一一年、馬超と韓遂らが曹操に立ち向かおうとします。
この時、馬超らは関中にある軍閥をひとまとめとして挙兵しようとしますが、当時関中の軍閥の一つの長であった劉雄鳴は、従いませんでした。
結果反感を買って、馬超らから攻撃を受けてしまいました。
この時、劉雄鳴は逃げ延びることができましたが、これにより彼は関中の軍閥の長でありながら、関中十部軍には属さないこととなります。
曹操との遭遇
同年、二一一年に曹操と馬超ら関中十部の潼関周辺での戦い、いわゆる”潼関の戦い”が起こります。
曹操はここで馬超らの軍を打ち破ります。この時、劉雄鳴は、曹操の陣を訪れました。曹操は彼の手を取って言いました。
「余が潼関に入ろうとした時に、一人の神人を得る夢を見た。それがあなただったのか。」
曹操は劉雄鳴を厚く礼遇し、上表して将軍とし、その部下達を迎えに行かせました。
またも戦に巻き込まれる(?)劉雄鳴
関中十部を打ち破った曹操は劉雄鳴らにも降伏を促しました。
これに対して、部下達は同意せずに劉雄鳴に迫り、反旗を翻させました。
さらに亡命者も加わり数千人にも及ぶ集団となりました。
ひっこみがつかなくなった劉雄鳴は、彼らとともに古くからの要害である武関の街道を固め、全面的に抵抗する姿勢を示しました。
曹操の命により、夏侯 淵が劉雄明らの軍を打ち破りました。そのため、劉雄鳴らは漢中に逃走しました。
結局捕まる劉雄鳴
後の二一五年、曹操は漢中を治めていた張魯を打ち破り、降伏させました。
劉雄鳴も行き場をなくし結局再び降伏しました。
曹操は彼の口髭を引っ張り彼に言いました。
「老賊、今度こそお前を手に入れたな。」
曹操は彼の官位を元通りとしましたが、遠くの渤海郡にやってしまいました。
三国志ライターF Mの独り言
最後に遠くに飛ばされてしまったところを見ると、劉雄鳴は部下のせいで、曹操に疑われていた、と推測されます。
曹操は最初に、彼の手をとり神人と呼びましたが、最後は彼を老賊と呼んでいます。
賊=漢の逆臣という意味合いで、部下にけしかけられたとはいえ反乱した劉雄鳴は逆賊でしかないです。
反乱を起こせないように知らぬ土地へ追いやり、仮に起こしても大きな被害が出ないようにしたのでしょう。
こうして見ると、劉雄鳴は人々に頼られ、部下達の為に行動しましたが、自身の保身はできず、損な役回りをしてしまう人の様に見えます。
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