【潼関の戦い】関中軍閥にはどんな人がいたのか?

2018年9月15日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

馬騰

 

西暦211年に発生した潼関(どうかん)の戦い、特に馬超(ばちょう)韓遂(かんすい)が有名ですが、実際には彼らに呼応した軍閥(ぐんばつ)関中十部(かんちゅうじゅうぶ)がいたからこそ出来た反乱です。銘々が1万の騎兵を率い集合すると10万に達したという大規模な会戦。それが潼関の戦いだったのです。今回は、あまりスポットライトがあたらない関中十部について解説しましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



関中十部とは具体的に誰?

梁興

 

関中十部とは、蜀志(しょくし)馬超伝に引く典略(てんりゃく)に登場する人々で、侯選(こうせん)程銀(ていぎん)李堪(りかん)張横(ちょうおう)梁興(りょうこう)成宜(せいぎ)馬玩(ばがん)楊秋(ようしゅう)、韓遂が記録されます。正確には九名なので凡そ十部とされています。潼関の戦いが起きると、彼らは軍勢を率いて黄河のほとりの潼水に至り陣営を立て連ねました。それぞれが1万人の騎兵を率いていたようで、全体では10万人規模です。

 

三国志演義_書類

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)では、韓遂を除く八名が馬超の配下のような描かれ方ですが正史三国志には、双方に主従関係があるような描写はありません。ただ、馬超等は韓遂を(不在時に)都督(ととく)(総大将)としたという記述がある事から全体を統括する名目上のボスは韓遂だったようです。

 

李傕

 

 

元々、関中は面積の割に、人口希薄だったようですが、李傕(りかく)郭汜(かくし)が長安で献帝(けんてい)を擁して人口が多い長安周辺の三輔を荒らしまわり暮らせなくなった住民が、彼ら関中軍閥のテリトリーに流れ込んで行き次第に強大になっていきました。

 

五斗米道の教祖・張魯

 

また、関中十部は漢中の張魯(ちょうろ)とも密接な関係を持っていました。これは、馬超が蜂起に失敗すると張魯を頼っている事からも明らかです。一人馬超ばかりではなく、下段で紹介する程銀や侯選も潼関の戦いに敗れると漢中に逃げ張魯が降伏した所で曹操に下っています。

 

 

肥沃な穀倉地帯河東郡の軍閥 侯選、程銀、李堪

肥沃な穀倉地帯河東郡の軍閥 侯選、程銀、李堪の地図

 

関中軍閥の3名、侯選、程銀、李堪は、魏志張魯伝によると河東郡の出身者です。この河東は曹操が支配する前に袁紹(えんしょう)の影響下にあり、黒山賊も存在しました。また袁紹の死後も、并州刺史の高幹(こうかん)に呼応して叛いた衛固(えいこ)范先(はんせん)という軍閥がいました。

 

河東郡は穀倉地帯として知られ、潼関の戦いでは10万以上と言われる曹操軍の兵糧の全ては、河東郡から輸送されていました。3名の中で、李堪は潼関の戦いで敗れて敗走する時に斬られて死亡侯選と程銀は、漢中に逃げ込み、その後、張魯が曹操に降伏すると、共に降伏して爵位を与えられています。

 

 

呂布対項羽

 

 

最後まで頑張ったで賞 梁興

最後まで頑張ったで賞 梁興

 

梁興の出身地は不明です、潼関の戦いでは5000の騎兵を率い、曹操軍の黄河渡河を阻止する役割を与えられていましたが、結局、徐晃(じょこう)朱霊(しゅれい)の渡河を許し拠点を造られてしまいます。

 

しかし、潼関の敗戦後、十部が次々と敗走する中で一人だけ三輔に留まり各県を荒らしまわり、誰も手が出せずに役所に避難する有様だったようです。

 

ですが、左馮翔(さひょうよく)鄭渾(ていこん)は、防衛に回らず住民を組織して自警団をつくり賊でも投降者は優遇し、同時に賊に懸賞金をかけて捕らえる事を奨励したので欲の対象になった梁興は狙われる立場になり、略奪もうまくいかず鄜城に籠った所を夏侯淵(かこうえん)の討伐軍に破れ斬られました。付和雷同の烏合の衆が多い、関中十部の中では、一番強硬に曹操に抵抗した人なので頑張ったで賞を与えたいです。

 

韓遂、馬超に次ぐ実力者 成宜

 

成宜の出身地も不詳ですが、史書では、馬超、韓遂に次いで名前が登場し、別の場面では、楊秋、李堪と共に名前が出る事から№3の実力者であったようです。しかし、それが災いしてか曹操には許されず、潼関の戦いに敗北して李堪と共に戦死しました。

 

関連記事:潼関(どうかん)の戦いとはどんな戦いだったの?【関中十部VS曹操軍】

関連記事:夏侯淵が滅ぼした宋建は韓遂を上回る長生き群雄だった

 

 

曹操から爆笑取ったで賞 楊秋

 

楊秋も出身地は不詳ですが、部下に雍州天水郡の人がいるのでもしかすると、その辺りの人かも知れません。この楊秋は、よく言えば時勢が見える人、悪く言えば生臭い人物で、建安年間から度々曹操の下に部下の孔林(こうりん)を派遣していました。

 

孔林は曹操の機嫌を見て細かい進言をし、気に入られて騎都尉になり、そのお陰で楊秋も曹操に知られてはいたようです。

 

潼関の戦いに敗北した楊秋は、当初逃亡しますがとても逃げきれないと覚悟し安定で降伏します。この時に楊秋は立場を有利にしようと小賢(こざか)しくも、「私は最初から降伏するつもりだったので、涼州までは逃げず安定に留まったのです」と五十歩百歩な言い訳をしました。

 

しかし、曹操に「降伏するつもりならどうして逃げようとした?」と突っ込まれ返答に困った楊秋は「それは、その、付き合いで・・」と珍回答。曹操はそれを聞いて、大爆笑し降伏を許したという逸話があります。楊秋はその後も抜け目なく立ち回り、曹魏が建国されると、反乱鎮圧などに功績を挙げ、征羌護軍を兼ねた郭淮の配下として張郃共々名前を連ねたそうです。

 

 

 

どうなったか分からないで賞 馬玩、張横

どうなったか分からないで賞 馬玩、張横

 

馬玩と張横は出身地も生没年もまるで分からない人物です。潼関の戦いに参加した軍閥の一人ですが、その後どうなったかも不明、馬玩についても、馬姓なので馬超と同族かというとそんな記述はありません。元々、二人とも大した勢力ではなく史書に記す必要もない小者だったという事かも知れません。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

以上、あまり目立たない関中十部について書いてみました。総合では、八人中、曹操に降伏したのが、程銀、侯選、楊秋3名敗北して斬られたのが、李堪、成宜、梁興、3名。どうなったのか消息不明なのが、馬玩と張横の2名でした。離合集散が常で弱肉強食な関中軍閥らしく、身の振り方が均等にばらけているのも面白いですね。

 

関連記事:錦馬超の武勇はどこまで本物なの?正史と演義を比較してみよう

関連記事:【衝撃】馬超は漢語が出来なかった?韓遂との不仲の原因を考える

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-三国志の雑学
-