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軍神上杉謙信をコテンパン!謎の軍師白井入道

2018年12月21日


 

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戦国最強の武将の呼び声も高い越後(えちご)の龍、上杉謙信(うえすぎけんしん)。自身を毘沙門天(びしゃもんてん)の化身と信じた彼には、矢も鉄砲も当たらなかったそうです。ある時、謙信は味方の士気を鼓舞する為に、わざと敵の攻撃が届くような場所で矢玉が飛んでくるのも気にせずに悠々と弁当を食べ、茶を三杯飲んで無傷で戻ったそんな伝説もあるのだそうです。

 

 

こりゃあ戦闘力100だと思える上杉謙信ですが、実はそんな謙信をコテンパンに破った軍師が歴史上に存在していました。その名を白井入道浄三(しらいにゅうどうじょうみ)と言います。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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落城間違いなしの臼井城に偶然居合わせた白井入道

 

白井入道浄三は別名を胤治(たねはる)といい、出自は定かではありませんが千葉氏(ちばし)の支流で利胤(としたね)親胤(ちかたね)富胤(とみたね)の千葉氏三代に仕えたと言われています。

 

一説には、三好三人衆の一人、三好日向守(みよしひゅうがのかみ)に軍師として仕え関東には武者修行でやってきて、偶々、原氏の居城臼井城(うすいじょう)に居たとかともあれ、この時、白井入道が臼井城にいた事が上杉謙信の不運となりました。

 

 

 

1566年上杉謙信関東侵攻

 

 

永禄九年(1566年)上杉謙信は関東の諸勢力を下そうと春日山城(かすがやまじょう)を出陣。三国峠(みくにとうげ)を越えてから、関東の諸将に動員を掛け、一万五千の兵力を集めると怒涛(どとう)の進撃を開始する事になります。謙信は常陸の小田城を攻め潰し、下総の小金城を蹂躙(じゅうりん)、その後兵を臼井城に向けると一万五千の兵力で包囲しました。

 

 

当時、臼井城を支配していたのは、原胤貞で(はらたねさだ)したが、その手勢は二千に足りません。もちろん、胤貞は近隣に援軍を求めますが、本家筋の千葉氏は謙信の狙いが、本家の佐倉城であると考えて守りに入り、臼井城には僅かな援軍しか送りません。

 

 

それならばと、後北条氏に援軍を求めると、当時、安房(あわ)の里見氏と抗争中の後北条氏は松田孫太郎(まつだまごたろう)等150騎を送っただけで、あとは静観しました。謙信に包囲された臼井城の兵力は援軍を入れても二千、、戦国最強の上杉謙信に包囲され援軍もなし、誰の目から見ても臼井城落城は時間の問題に見えました。しかし、この時に立ち上がったのが、白井入道だったのです。

 

 

 

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士卒を言葉巧みにまとめ上杉勢に討って出る

 

一万五千の上杉勢に猛烈に攻めかかられ、臼井城は数日で(ほり)一つを残すだけになります。もうダメだと意気消沈する臼井の将兵の前に出現したのが白井入道でした。思わせぶりで自身満々な態度の白井は、こんな事を言います。

 

 

「敵の士気は殺戮(さつりく)の邪悪な気であるからすぐに衰えるが、我が軍の気は故郷を守ろうとする正しい気であるから邪気に勝る必ず敵は敗走するから心配はいらぬぞ!」

 

 

こんな子供だましで士気が回復するのかと思いますが、当時の人々は迷信深く、戦争においても縁起担ぎがよく行われていました。白井は軍師ですが、当時の軍師は戦争の参謀ばかりでなく、筮竹(ぜいちく)や占星術等にも通じ世の中の森羅万象を都合よく解釈して、自軍の有利を吹聴する機略に長けていたそうです。

 

 

白井も同じような手法で、迷信深い人々を上手く信じ込ませたようです。以後、臼井城の将兵は団結し、上杉軍の猛攻に耐えるようになりました。白井入道は将兵を励ましながら、チャンスを待っていました。

 

 

 

 

臼井城の城門を開け放ち三段攻撃

 

 

謙信は、なかなか落ちない臼井城にイライラし、ついに総攻撃を命じます。ところが、ひたすら貝になっていた臼井城の兵士を上杉勢は完全に()めていました。

 

 

白井は緩慢(かんまん)な上杉勢を見て逆に攻撃を仕掛ける事を決意し、いきなりすべての城門を全開にして、怒涛の勢いで討って出たのです。反撃など夢にも思わない上杉勢は、突然の逆襲に仰天し浮足立ちました。

 

 

臼井城の手勢は三段構えでした、最初に原大蔵丞(はらおおくらのじょう)高城胤辰(たかぎたねとし)ががむしゃらに攻め寄せ、それが疲労すると二陣の平山と酒井が突撃して、上杉勢に風穴を開けました。最期は、後北条氏から出向した松田孫太郎と150騎が雑兵を放置し錐のように謙信の本陣目掛けて突進します。

 

松田孫太郎は後北条氏の僅かな援軍として奮起し、赤い鎧を真っ赤に染めて、赤鬼の異名を取る活躍をしました。余りの臼井の勢いに恐怖を感じた上杉謙信は退却の命令を出したのです。

 

 

 

焦れる謙信、白井入道の計略にハマる

 

 

この敗戦は謙信のプライドに泥を塗りました。「おのれ、白井入道、だが、明日はこうはいかんぞ」謙信は急速に陣営を立て直し、明日攻めてくるだろう白井入道を待ちます。ところが、翌日、いくら待っても臼井城からは人っ子一人でません。

 

「どうして、白井入道は出撃せんのだ!」謙信がブリブリ怒ると、側近の海野隼人正(うんのはやとのしょう)が言いました。

 

「本日は千悔日(せんかいび)と言いまして、先に戦いを仕掛けた方が負けます白井入道は、それを気にして討って出ないのでしょう」

 

海野の言う通り、白井は昨日の戦勝に気を良くし覚醒状態(かくせいじょうたい)の将兵を必死で抑えていました。

 

しかし、白井はただ、将兵を抑えていたのではありませんでした。短気な謙信の性格を読み、先に上杉勢が討って出るのを待っていたのです。我慢していた謙信ですが、とうとう痺れを切らし先鋒の長尾顕長(ながおあきなが)に命じ攻撃を開始、長尾勢は城壁の近くに植えられた逆茂木(さかもぎ)を抜き始めます。その時でした、臼井城の城壁が突然ガラガラと音を立てて崩れたのです。

 

これにより長尾顕長の先発隊、数百名が一瞬で即死しました。

 

白井「いまだ!掛かれ!」

 

ここで、白井は討って出たくてうずうずしている将兵に攻撃を命じます。キングダムで言う所の覚醒状態の臼井城の将兵は、突然の出来事に呆然としている上杉勢に襲い掛かりました。

 

計略にハマったと悟った謙信は退却を命じますが、時すでに遅しでした。大混乱に陥った上杉勢は、軍の統率も取れないまま四散してしまい、臼井勢は背中を見せた上杉勢の背を叩き続けました。

 

上杉勢は北条長国(ほうじょうながくに)新発田治(しばたはるなが)長の奮戦で、なんとか臼井勢の猛攻を凌ぎ臼井勢は城に帰還しますが、その間に上杉勢五千の命を奪ったと、後北条氏の古河公方、足利義氏(あしかがよしうじ)は記録しているそうです。

 

たった一人の軍師の為に大惨敗を喫した謙信は深追いを止めてしまい、臼井城の包囲を解いて退却してしまいました。白井入道は、戦国最強の軍神に知略で勝利したのです。

 

 

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

 

このように軍神上杉謙信に勝利した白井入道ですが、その後の行方は不明です。一体、どこへ行ったのか、病死したのか名を変えたのか確かな事は分かりません。

 

ただ、この戦いから40年以上後、1611年、白井竜伯(しらいりゅうはく)という軍師が豊臣家重臣、片桐勝元の依頼を受けて、豊臣秀頼と徳川家康を合わせるべきか否かという占いをしました。白井竜伯は勝元に、二人を合わせるのは凶であると結果を伝えます。しかし、家康を怒らせる事を恐れた片桐勝元(かたぎりかつもと)は、勝手に占い結果を凶から吉に変え淀殿には家康と会見すべしと伝えました。

 

この時、秀頼に会った家康は秀頼の偉丈夫ぶりに驚き、殺害を密かに決意したとか・・もしかすると、この白井竜伯が白井入道当人かその子孫だったかのも知れません。

 

参考:歴史の勝者にはウラがある 日本人が誤解している戦国史 /PHP文庫)/ –2018/12/3河合 敦 (著)/

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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