戦国時代の農民の暮らしと言えば、七人の侍のイメージでズルくて弱くて依存的に思われます。
しかし、最近の研究により、それは一面的な見方に過ぎない事が分かってきました。
戦国時代の農民は自らを鍛えて防衛力を高め、時には他村、或いは大名とも抗争し厳格な掟を置いたスパルタなものでした。
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この記事の目次
看聞日記に見る守護大名と喧嘩する農民
室町時代の皇族、伏見宮貞成は、非常に好奇心が強い人物で宮中の事ばかりではなく世の中の様々な事に興味を示し、
それを看聞日記に残しています。
それによれば、嘉吉3年(1443年)9月、京都に近い市原野という山村で美作国守護の山名教清の家臣と村人の間で小競り合いが起きています。
小競り合いで山名家の家臣は殺され、怒った山名教清は他家の援軍を入れて市原野の農村を攻めますが、村人は弓矢等を使って応戦し
大きな被害を与えたそうです。
室町期の農民と言えば、戦乱に搾取され疲弊しているイメージですが、決してそんな事はなかったわけです。
村同士でさえ合戦をした荒々しい中世の農村
ルイス・フロイスの日本史には戦国の庶民について以下の記述があります。
(日本では)農民をはじめとしてすべてのものがある年齢に達すると太刀と小刀を帯びる
ーーー中略ーーーーー
彼らは不断の果てしない戦争と争乱の中に生きる者のように、種々の武器を所有する事をすこぶる重んじている。
このようにあり、農民でも腰に大小を差し、また様々な武器を所有していました。
合戦は武士だけのものではなく、実際に農民vs農民の合戦も起きています。
中世村落研究の重要史料菅浦文書によると、15世紀の初め、琵琶湖北端の菅浦と隣の大浦との間で争いが起こりました。
両村は、周辺の村に援軍を求め、深刻な合戦は一挙に周辺に拡大、菅浦方は15人の戦死者を出しただけでなく、周辺の村々への加勢費用として
兵糧、酒代、戦死者への補償として五十貫という負債を背負ったそうです。
これを見ると当時、紛争の手伝いは有償であった事、手伝い戦で規模が大きくなったことが分かります。
15名も戦死者が出るようなら、それは小競り合いではなく村同士の合戦でしょう。
守護大名並みに統制された村の武装組織
一端、事があれば合戦が可能な点から分かる通り、当時の村には武装組織がありました。
看聞日記によると、永享6年(1434年)の秋、京の近くの伏見荘に落人狩りをせよという幕府からの命令が届きます。
それに従い、村の中心となる寺の梵鐘が打ち鳴らされ、夕刻には武装した農民が寺の境内に集まります。
そこで、作戦会議がもたれ、「着到」と呼ばれる出席簿に参加する農民の名前が記録されていきました。
この着到は着到状と呼ばれ当時の武士が合戦の時に使用したものを模倣したようです。
村人はいくつかの部隊に分けられ、殿原若輩という村の青年がリーダーになり部隊を率いていました。
このように当時の村では、十分に組織化された兵力があったのです。
合戦で卑怯な振る舞いをすると永久追放
普段から武装していたという事は、武器はありふれていたという事で、中には、そういう武器を使い、村の秩序を乱す村人がいました。
それに対し村は、警察、裁判、処罰権を独自に有しており、放火、窃盗、強姦、博奕、殺人のような犯罪に対し他所の助けを借りず
自ら裁き制裁を下しました。
このような村の司法・警察・処罰機能を自検断と言います。
近江国にあった今堀惣の村掟という文書によると村人が守る掟として
1502年には、稲餅、蕎麦餅、麦餅を食べた者は百文の罰金に処すというものや、ちょぼ博奕に宿を貸したものは、三百文の罰金という
博奕を禁止したもの、変わった掟には、1556年、村の寄り合いで草履を履き違えたら罰として十二本の炭を一束にして村に納品する事。
足駄を履き違えた場合には、十二本の炭を二束村に納品する事等もあります。
また江戸初期になりますが、近江蛇溝村の置目(掟)では、「他村との争いで卑怯な振る舞いをしたものは惣中(村)から排除するという
厳しい掟がある他、逆に村の為に負傷したり戦死した村人には補償を行う規定まであったようです。
戦国時代の村は、軍隊顔負けの規律で自分達を奮い立たせ、生命と財産を自力で守っていたシンドイ所でした。
参考文献:最新研究が教えてくれるあなたの知らない戦国史 辰巳出版
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
戦国の村は、非力な農民だけがいたのではなく鉄の団結を維持した武装集団がいて厳しい掟を遵守して生きた、かなりのスパルタだったようです。
やはり戦乱の世、農民でも、ただひたすら畑を耕し山賊や大名の襲来に怯えていては、生きられなかったのでしょうね。
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