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秦檜とはどんな人?実はスパイだったの?

2019年1月28日


 

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秦檜(しんかい)

 

秦檜(しんかい)は中国において悪名高き人物として知られています。愛国の武人岳飛(がくひ)を殺しただけではなく、金軍と屈辱的な和議を結んだことで有名です。また、秦檜は複雑な南宋政治をほぼ、1人で握っていたことから、南宋の「専権宰相(せんけんさいしょう)」の1人に数えられています。ところで秦檜は中国では有名なのですが、日本ではあまり知られていません。そこで今回は秦檜について解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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実務系の官僚として歩む

 

秦檜は江寧(江蘇省南京市)の出身であり、北宋の元祐5年(1090年)に世に生まれました。脚が長かったので「秦長脚」と呼ばれていました。特技は宴会の幹事。今の世でしたら、大学生の就職活動の自己PRに使えそうです。政和5年(1115年)、26歳で科挙(官吏登用試験)に合格しました。地方職を経験後に、中央では職務は太学学正(たいがくがくせい)を務めていました。今で例えるなら大学職員です。

 

当時の宋代の学生は政治にかこつけて、デモを起こしていたので秦檜の仕事は非常に大変でした。さて、靖康2年(1127年)北宋が金軍により滅ぼされる〝靖康の変(せいこうのへん)〟が起きました。この時、秦檜は後年の彼から想像もつかない行動をとっています。

 

 

 

金軍の怒りに触れて拉致される

 

 

金軍はこの時、中国内地の統治のために張邦昌(ちょうほうしょう)という官僚に皇帝になることを頼みました。だが、これに断固反対したのが秦檜でした。秦檜は反対の文書まで執筆して金軍に送り付けたのです。すごい度胸です。もしかしたら、これが本当の秦檜の姿なのかもしれません。激怒した金軍は秦檜と彼の妻の(おう)氏を逮捕して、本国まで拉致しました。その後の秦檜の消息は、しばらく分かりません。

 

 

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疑惑の帰還

秦檜(南宋の政治家)

 

南宋の建炎4年(1130年)に、いきなり秦檜は戻ってきました。それも1人ではなく、妻の王氏と召使いも無事に連れて帰ったのです。秦檜の証言によると、見張りを殺して帰ったと言うのです。当然、こんな証言は誰も信じません。金軍のスパイ疑惑はぬぐえませんでした。しかし、秦檜の昔馴染みの范宗尹(はんそういん)がみんなを説得したので、どうにか南宋初代皇帝の高宗(こうそう)と対面しました。すると秦檜は驚きのことを主張しました。

 

 

和議を主張

 

秦檜は高宗に対して金軍との和議を主張しました。かつて金軍に強気な態度をとった秦檜の姿はどこにもありません。一説によると、金軍の武人と密約を交わしたと言われていますが、私は後世の俗説と考えています。おそらく長きにわたる抑留生活が、彼の人生観を変えたのだと思います。高宗は秦檜の意見に賛成しました。高宗も戦争継続は望んでいなかったので、秦檜と共同で和議の締結に当たりました。

 

 

岳飛の殺害~和議の締結

岳飛(南宋の軍人)

 

その後秦檜は宰相を失脚したり、返り咲いたりと繰り返しましたが、金軍との和議は着実に整っていきました。ところが秦檜にとって邪魔な人がいました。岳飛でした。岳飛は農民から成りあがった武人であり、金軍だけでなく各地の反乱鎮圧にも貢献しました。岳飛を放っておくと、必ず災いの種になると秦檜は思いました。そこで秦檜は岳飛と仲の悪い張俊(ちょうしゅん)という武人と手を組んで、岳飛の罪をでっち上げて、彼を投獄して殺しました。和議は紹興12年(1142年)に締結されました。

 

内容は以下の通りです。

 

1)領土は北を金軍が支配、南を南宋が支配する

(2)立場は金軍が上、南宋が下

(3)南宋は毎年、金軍にお金を支払う

 

これは南宋の人からすれば屈辱的な内容であり、秦檜が後世「売国奴」と呼ばれた理由です。

 

 

その後の秦檜

 

秦檜は岳飛の死後も政治で専権を振るって、使える部下は思う存分使いました。しかし彼にとっては、「使える部下=信頼関係」という意味ではありません。ただのコマにすぎないのです。用が済んだら終わりです。秦檜はそのようなことをずっと続けました。まさに恐怖政治でした。しかし、こんな人ほど長生きするものです。秦檜は紹興25年(1155年)に66歳の生涯を閉じました。彼が死んだ時の皇帝高宗のセリフがあります。

 

「ようやく靴の中の針が取れた気分だ・・・・・・」よほど恐ろしい人物だったのでしょうね。

 

 

 

宋代史ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

秦檜が和議を結んだのは、当時としてはやむを得ない手段でした。あのまま戦争を続けていたら、中国は乱世に突入していたはずです。彼はそれを回避したので、立派な政治家だと思います。だから、僕は彼を非難する気にはなれません。

 

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北宋・南宋

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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