明智光秀について、よく疑問に上るのは光秀の年齢です。従来は、明智軍記の光秀の辞世の句から、五十五歳で死んだというのが定説でした。それだと逆算すると、享禄元年(1528年)生まれになり、信長より6歳年上、秀吉より8歳年上という事になります。しかし、最近、この光秀の年齢に疑問説が出てきて実際は信長どころか、秀吉よりも若かったのではないかと言われているのです。
※こちらの記事は、祥伝社新書 明智光秀残虐と暴虐 一級史料で読み解くを参考にして執筆しています。
この記事の目次
従来の光秀年寄説の根拠明智軍記
明智光秀年寄説は、明智軍記に記された光秀の辞世の句にあります。
順逆二門無し 大道心源に徹す 五十五年の夢
覚め来たり 一元に帰す
この遺言をそのまま信じると、数え年で1582年に55歳なのだから、単純に逆算すると、1528年の生まれという事になるわけです。しかし、この明智軍記、成立が17世紀末から18世紀の中期に成立した軍記物という信憑性が低い史料という事です。光秀が死んでから、百年以上経過して出来たとなるとその信頼性も薄くなってきますね。明智系図や明智氏一族宮城家相伝系図書のような明智光秀の家系図も享禄元年説を採用していますが、いずれも後世の編纂で明智軍記の記述を引用した可能性が高いです。
本能寺の変の時、六十七歳説もある
一方、光秀は本能寺の変の時、六十七歳だったという衝撃の説もあります。こちらは、当代記に「時に明知(智)歳六十七」と注記があるのが根拠のようです。しかし、この当代記も徳川家康の伝記として十七世紀の前半頃に編纂されたもので光秀死後、半世紀を経過したもの。
また仮に、これが正しいとすると光秀が最初に出てくる永禄9年(1566年)の田中城籠城の時点で光秀は五十歳を超えている事になります。明智光秀の出自は守護大名、土岐氏の支流で、没落していたそうですが、しかし五十歳過ぎてからようやく名前が出てくるなんて太公望じゃあるまいし、幾らなんでも出世が遅すぎないでしょうか?
いかに信長が能力主義でも、当時の常識では隠居していても不思議ではない、いえ、下手をすると墓に入っていても不自然ではない五十歳の老人光秀を引き立てて採用するでしょうか?いくらなんでもジジイすぎて、現実味に乏しい感じがします。
【新説】明智光秀は、1540年産まれ?
近年、咲村庵氏が「明智光秀の正体」という本の中で明智光秀は1540年生まれ説を取っています。その根拠は明智光秀の妻、煕子の没年が天正4年(1576年)であり、享年が三十六歳から四十六歳と諸説ある事。それに三女のお玉(後のガラシャ)の生年が永禄六年(1563年)である事を考慮し、光秀が子年生まれであるという伝承から1540年説を出しています。
仮に光秀が1516年生まれだとすると、お玉は46歳の時の子供になります。しかし光秀は側室を持っていない事から、お玉の生母が煕子なら30代後半から40歳にかけて産んだ事になり当時としては高齢出産になります。しかし、光秀が1540年生まれなら、お玉は23歳の子になり、色々な点で無理が無くなる感じがします。
光秀の姉妹、御ツマ木から年齢を考える
「明智光秀残虐と暴虐」を書いた橋場日月氏も、明智光秀は従来考えられているより、ずっと若かったのではないかと持論を展開しています。その根拠は、明智光秀の姉妹と考えられる御ツマ木に関する文書からです。この御ツマ木や光秀と親交のあった公家吉田兼見の「兼見卿記」には、天正7年(1579年)四月十八日に以下のようにあるそうです。
妻木(惟向州妹)参宮、神事之義以書状尋来、月水之義也
これは、明智惟任日向守光秀の妹、御ツマ木が兼見が神主を勤める吉田神社に参詣して祈祷などを依頼したいのだが、その日は月水、つまり月経に当たるのが、神様に対して穢れにならないかを尋ねた文書だそうです。
ここから考えると、御ツマ木は1579年の段階で生理があった事になります。一般に現代より栄養状態が悪い戦国時代には女性の閉経年齢は、もちろん個人差はありますが、30代前半と考えられています。女性の大厄である三十三歳は、閉経の時期だと考えられ、体に不調が出やすいから、厄年になっているという説もあるそうです。
だとすると、御ツマ木は1579年に33歳以下だとして1546年生まれ、もし光秀が兄なら1516年産まれでは30歳も年が離れた兄妹となります。1528年生誕説でも18歳という年齢差になり、かなり無理が出ますね。そうなると、1516年生まれはまず有り得ず、1528年としても随分年の離れた兄妹になってきます。また、御ツマ木が光秀の姉だった場合、光秀の年齢はより下がるという事にもなるのです。
明智光秀は織田家でもかなり若い武将だった?
明智光秀が1540年生誕説を取ったとして、当時の織田家重臣の中では光秀の年齢はどうだったのでしょうか?
柴田勝家1522年生まれ
滝川一益1525年生まれ
丹羽長秀1535年生まれ
羽柴秀吉1536年生まれ
前波吉継1541年生まれ
織田信長1534年生まれ
このように、光秀は前波吉継より一歳年上なだけで、柴田勝家とは18歳違い、滝川一益とは15歳違い、丹羽長秀、羽柴秀吉とは5歳から4歳違いです。当時は、今より年齢の序列が強烈ですから光秀は年長者に囲まれてさぞや、やりずらかった事でしょう。しかも、光秀に対する信長の信任はこの5人を超えるものがありました。
「若僧の癖に、出しゃばりおって・・」そのような面白くない気分を、特に柴田勝家や滝川一益は持ったでしょう。
孤立した光秀 ルイス・フロイスの記録
明智光秀について、ルイス・フロイスは日本史でこう書いています。
殿内(織田家中)にあって、彼は余所者であり、外様の身であったので
ほとんどすべての者から快く思われていなかった
フロイスは、光秀については狡猾で残忍で計略が多くて忍耐強いとかなり辛口の批評をしていますから、そのような光秀の性格もあるでしょうがそれ以上に、年下の癖に信長に気に入られているというのは古参の織田家の重臣には、よく思われていないのではないでしょうか?
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
明智光秀は従来考えられているより、ずっと若かったのではないかと思います。彼は若く才気に溢れていましたが、同時に若さ故に、年長者に気をつかう事が薄く次第に疎まれて立つ瀬がなくなり、それがさらなる忠誠を信長に誓う事に繋がったのかも知れません。家中に嫌われようが信長の心を掴んでいれば大丈夫という計算です。しかし、そんな信長が光秀より秀吉を重んじるようになった時、織田家中における彼の存在意義は絶体絶命の危機に瀕してしまった。それも、本能寺の変の遠因になるのかも知れません。
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