明智光秀の人生最大にして最期の見せ場は織田信長を討った本能寺の変です。では、光秀の人生最初の見せ場をご存知でしょうか?
実は、それは本能寺と一字違いの本圀寺の変だったのです。この戦いで光秀は手柄を立てて、信長に認められ急速に出世していきます。今回は明智光秀の出世の糸口、本圀寺の変を解説します。
※こちらの記事は明智光秀残虐と謀略一級史料で読み解くを参考に執筆しています。
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本圀寺の変とは?
永禄十二年(1569年)正月一月五日、織田信長が一時、京都を離れます。それを待っていた三好三人衆は、下京、六条堀河の本圀寺に逗留していた足利義昭を1万という大軍で包囲したのです。この軍勢には、美濃を追われた斎藤龍興も加わっていたと言います。
※三好三人衆:三好長逸、三好宗渭、岩成友通の3名で三好長慶の死後に三好氏を主導した
やっと将軍に返り咲いたとはいえ、義昭に自分の軍勢はありません。このまま身柄が三好一門の手に落ちれば京都は再び、三好三人衆の支配下にはいるのです。しかし、ここで大活躍したのが明智光秀でした。
光秀得意の鉄砲で三好三人衆を撃退
上京の奉公衆の屋敷から異変にきづいて駆けつけた光秀は寺内に入ると、襲い掛かる敵の騎兵を鉄砲で撃退しました。それもなかなかに手際が良かったようです。
綿考輯録によると光秀には大筒の妙術があったという記述があります。大筒というのは大砲ではなく、通常の火縄銃よりも何倍もある巨大な火縄銃です。普通の鉄砲が4~5匁の弾丸を飛ばすのに対し、大筒は200匁の弾丸を飛ばしました。今風に考えるとバズーカみたいなものでしょうか?
もちろん、こんな巨大な大筒を扱える以上、光秀は普通の火縄銃はお茶の子さいさいでしょう。
信長公記には、
やにわに(たちどころ)三十騎ばかりを射倒し
という記述があるので、これは弓矢ばかりでなく鉄砲の掃射もあったのでしょう。
出鼻を挫かれた三好三人衆の元に、勝竜寺から、細川藤孝、沼田清延それに河内若江城から出撃した三好義継(三好家の当主だが三人衆とは対立)が駆けつけて攻撃を仕掛けた為に、三好三人衆は大混乱して逃げ出しました。楽勝だと思っていた三好三人衆にとって、光秀の存在こそが唯一の大誤算だったのです。
織田信長に奉行人に取り立てられる光秀
危うく京都を奪われる所を光秀の奮戦に救われた信長は否応なく光秀に注目します。1540年生誕説を取るとこの時光秀は29歳、まだ20代の堂々たる若武者、しかも、信長も夢中になった鉄砲に精通しているのです。恐らく、直々に信長が呼び寄せ、本圀寺の変のあらましや鉄砲の運用についてなんらかの密談があったのでしょう。
かくして本圀寺の変の2か月後に、明智光秀は歴史にその名前を現わすのです。
公方様、御台様、御座所近辺寄宿停止の旨、仰せ出され候。
万一兎角の族申仁これあるに於いては、校名(交名)を記し
きっと注進有るべく候
朝山日乗 村井貞勝 明智光秀 連署
これは、将軍足利義昭とその側室のいる地域に宿泊する事を禁止し、それに文句を言う者があれば、必ず知らせるようにという触書です。その触書に奉行人の一人として明智光秀の名前が初めて登場するのです。
信長は本圀寺の変を光秀抜擢に利用した
一方で、本圀寺以前から信長が光秀の器量を買っていたと見る向きもあります。すでに、義昭によって信長の上洛を促す為に何度か信長と会っていた光秀は、その才能を信長に見抜かれてはいたのですが、光秀はすでに義昭の足軽衆であり、信長が簡単にヘッドハンティングできない事情があったのです。
より正確に言うと、信長サイドはすでに実力主義体制が出来ていて、光秀のヘッドハンティングも問題ないのですが、旧弊墨守な室町幕府ではただの足軽衆に過ぎない光秀が、今をときめく織田家の家臣に引き抜かれると幕府奉公衆の嫉妬を買い、それが義昭に伝わると信長との間の不協和音に繋がる、信長はそう考えてヘッドハンティングを控えていたようなのです。
しかし、光秀が本圀寺で大手柄を挙げた事で信長は光秀を抜擢する大義名分が生まれ光秀を奉公人に加える事に踏み切ります。こうして、光秀は室町幕府の奉公衆であり、同時に織田家の奉行人という二人の主君を持つ存在になりました。
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
本能寺と本圀寺、明智光秀という武将の生涯には2つの寺が関係しているのです。しかし、信長同様に鉄砲に造詣が深い等、光秀は信長上洛により大きく、運が開けた人物であると言えますね。
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