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明智光秀の出世の糸口「本圀寺の変」って何?

2019年1月7日


 

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敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀

 

明智光秀(あけちみつひで)の人生最大にして最期の見せ場は織田信長(おだのぶなが)を討った本能寺(ほんのうじ)の変です。では、光秀の人生最初の見せ場をご存知でしょうか?

 

燃える本能寺

 

実は、それは本能寺と一字違いの本圀寺(ほんこくじ)の変だったのです。この戦いで光秀は手柄を立てて、信長に認められ急速に出世していきます。今回は明智光秀の出世の糸口、本圀寺の変を解説します。

 

※こちらの記事は明智光秀残虐と謀略一級史料で読み解くを参考に執筆しています。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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本圀寺の変とは?

 

永禄(えいろく)十二年(1569年)正月一月五日、織田信長が一時、京都を離れます。それを待っていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は、下京、六条堀河の本圀寺に逗留していた足利義昭(あしかがよしあき)を1万という大軍で包囲したのです。この軍勢には、美濃を追われた斎藤龍興(さいとうたつおき)も加わっていたと言います。

 

※三好三人衆:三好長逸(みよしながやす)三好宗渭(みよしそうい)岩成友通(いわなりともみち)の3名で三好長慶(みよしちょうけい)の死後に三好氏を主導した

 

やっと将軍に返り咲いたとはいえ、義昭に自分の軍勢はありません。このまま身柄が三好一門の手に落ちれば京都は再び、三好三人衆の支配下にはいるのです。しかし、ここで大活躍したのが明智光秀でした。

 

 

 

光秀得意の鉄砲で三好三人衆を撃退

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

 

上京の奉公衆の屋敷から異変にきづいて駆けつけた光秀は寺内に入ると、襲い掛かる敵の騎兵を鉄砲で撃退しました。それもなかなかに手際が良かったようです。

 

綿考輯録(めんこうしゅうろく)によると光秀には大筒(おおづつ)の妙術があったという記述があります。大筒というのは大砲ではなく、通常の火縄銃よりも何倍もある巨大な火縄銃です。普通の鉄砲が4~5(もんめ)の弾丸を飛ばすのに対し、大筒は200匁の弾丸を飛ばしました。今風に考えるとバズーカみたいなものでしょうか?

 

もちろん、こんな巨大な大筒を扱える以上、光秀は普通の火縄銃はお茶の子さいさいでしょう。

 

信長公記_織田信長_書類

 

 

信長公記には、

 

やにわに(たちどころ)三十騎ばかりを射倒(いたお)

という記述があるので、これは弓矢ばかりでなく鉄砲の掃射(そうしゃ)もあったのでしょう。

 

出鼻を挫かれた三好三人衆の元に、勝竜寺から、細川藤孝(ほそかわふじたか)沼田清延(ぬまたきよのぶ)それに河内若江城から出撃した三好義継(みよしよしつぐ)(三好家の当主だが三人衆とは対立)が駆けつけて攻撃を仕掛けた為に、三好三人衆は大混乱して逃げ出しました。楽勝だと思っていた三好三人衆にとって、光秀の存在こそが唯一の大誤算だったのです。

 

 

麒麟がくる

 

 

 

織田信長に奉行人に取り立てられる光秀

 

 

危うく京都を奪われる所を光秀の奮戦に救われた信長は否応なく光秀に注目します。1540年生誕説を取るとこの時光秀は29歳、まだ20代の堂々たる若武者、しかも、信長も夢中になった鉄砲に精通しているのです。恐らく、直々に信長が呼び寄せ、本圀寺の変のあらましや鉄砲の運用についてなんらかの密談があったのでしょう。

 

かくして本圀寺の変の2か月後に、明智光秀は歴史にその名前を現わすのです。

 

公方様(くぼうさま)御台様(みだいさま)、御座所近辺寄宿停止(ちょうし)の旨、仰せ出され(そうろう)

万一兎角の(やから)申仁これあるに於いては、校名(交名(きょうな))を記し

きっと注進有るべく候

朝山日乗(あさやまにちじょう) 村井貞勝(むらいさだかつ) 明智光秀  連署

 

これは、将軍足利義昭とその側室のいる地域に宿泊する事を禁止し、それに文句を言う者があれば、必ず知らせるようにという触書(ふれがき)です。その触書に奉行人の一人として明智光秀の名前が初めて登場するのです。

 

 

 

信長は本圀寺の変を光秀抜擢に利用した

明智光秀 麒麟がくる

 

一方で、本圀寺以前から信長が光秀の器量を買っていたと見る向きもあります。すでに、義昭によって信長の上洛を促す為に何度か信長と会っていた光秀は、その才能を信長に見抜かれてはいたのですが、光秀はすでに義昭の足軽衆であり、信長が簡単にヘッドハンティングできない事情があったのです。

 

より正確に言うと、信長サイドはすでに実力主義体制が出来ていて、光秀のヘッドハンティングも問題ないのですが、旧弊墨守な室町幕府ではただの足軽衆に過ぎない光秀が、今をときめく織田家の家臣に引き抜かれると幕府奉公衆の嫉妬を買い、それが義昭に伝わると信長との間の不協和音に繋がる、信長はそう考えてヘッドハンティングを控えていたようなのです。

 

しかし、光秀が本圀寺で大手柄を挙げた事で信長は光秀を抜擢する大義名分が生まれ光秀を奉公人に加える事に踏み切ります。こうして、光秀は室町幕府の奉公衆であり、同時に織田家の奉行人という二人の主君を持つ存在になりました。

 

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

本能寺と本圀寺、明智光秀という武将の生涯には2つの寺が関係しているのです。しかし、信長同様に鉄砲に造詣が深い等、光秀は信長上洛により大きく、運が開けた人物であると言えますね。

 

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織田信長スペシャル

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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