明智光秀は安土城を焼いたのか?その理由は

2018年11月3日


 

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(画像:安土城天主(宮上茂隆復元案)を模した伊勢・安土桃山文化村にある天守風建物Wikipedia)

 

織田信長(おだのぶなが)安土城(あづちじょう)は本能寺の変の直後に焼失しましたが、今でも多くの人の中で人気のある日本の城のうちの1つです。

豪華絢爛(ごうかけんらん)だったことで有名な城で、キリスト教の宣教師を通してヨーロッパに知られていました。

この記事では、最初に日本の城の変化について取り上げます。後半では織田信長が築城した安土城の特徴について取り上げます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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日本の城の変化

 

日本の戦国時代の城はほとんどが山の上に建てられた山城か小高い丘に建てられた平山城でした。

山や川など自然を利用して防御を最大限生かしていました。日本全国の城や城跡を訪ねるのが好きな人の中には

急な坂道を登った経験があるかもしれません。

鉄砲が日本に伝えられた頃から日本の城は平地に建てられるようになりました。

平地に建てられた城を平城(ひらじろ)といいます。

例えば、安土城以外では大阪城などが挙げられます。

山城では自然を利用して防御してきましたが、平城については濠や石垣で防御しました。

平城が建てられると、城の周りには城下町(じょうかまち)ができました。城下町が平城の防御にもなりました。

日本の平城は、安土桃山時代において城郭建築が文化として評価されるようになります。

姫路城については1993年にユネスコによって世界文化遺産に認定されました。

 

 

 

安土城の特徴

安土城の特徴

 

安土城跡は現在の滋賀県近江八幡市(しがけんおうみはちまんし)にあります。

滋賀県の安土に築いた最初の近世の城郭として有名です。

琵琶湖に面していることから、船の往来が盛んで、交通の要所にあることも特徴として挙げられます。

2010年まで滋賀県蒲生郡安土町でしたが、市町村合併により近江八幡市安土町となりました。

 

交通アクセスはJR琵琶湖線安土駅から徒歩20分の場所にあります。

安土城の特徴として、日常的な居住空間として使用されていたことが挙げられます。

これまでほとんどの日本の城では、大名が天守閣に居住せず、別途居住する場所がありました。

これまでの城にある道は敵の侵入を防ぐために狭いのが特徴です。

しかし、安土城の城内の道は広く、直線で歩きやすいのが特徴です。

信長は軍事拠点よりも政治的な機能を優先させた可能性が高いと考えられます。

他の安土城の特徴として豪華絢爛な装飾が挙げられます。

 

CGで復元された写真や動画をテレビで見た人はいると思いますが、豪華さに圧倒されたと思います。

豪華絢爛な建物という印象ですが、意外なことに資材はリサイクルされたものです。

織田信長が滅ぼした六角氏など付近の城跡から資材を運び、築城しました。

1576年に築城を開始し、1579年に五層七重の天守閣は落成しました。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

 

安土城焼失の理由

 

安土城は本能寺の変で焼失しました。

明智光秀により放火されたという話もありますが、それ以外にも落雷で消失、または、蒲生氏郷(がもううじさと)が放火したというような説までありハッキリしません。

仮に明智光秀の犯行だとすると、どうして安土城に放火したのでしょうか?

これはやはり、信長が財力を傾けて建設した安土城を焼き払う事で信長時代の終わりを鮮烈に印象付けたい、そのような狙いが

あったのではないでしょうか?

   

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

 

今回は織田信長の築城した安土城について取り上げました。

しかし、どうして焼失した筈の安土城が今、復元されているのでしょうか?

復元に貢献した史料として、キリスト教の宣教師であるルイスフロイスの著書『日本史』、

太田牛一(おおたぎゅういち)の『安土日記』、バチカンに安土城をスケッチしたとみられる絵が挙げられます。

織田信長といえば、一向一揆(いっこういっき)に手を焼いていたことで有名です。

特に、大阪の石山本願寺にかなり苦戦していたといわれています。

大阪の木津川口の戦いでは、石山本願寺と毛利の村上水軍が連携して信長を倒しました。

信長は村上水軍を倒すために鉄製の軍艦を建造して、村上水軍と石山本願寺を倒しました。

当時、鉄製の軍艦は西洋でも建造されたことがなく、斬新なものでした。

この鉄製の軍艦について、木津川口(いづがわくち)の戦い以降史料に載っていません。

安土城の研究と同様に、鉄製の軍艦の軍艦の研究にも注目したいと思います。

 

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ガンバレ徳川

 
 
 

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