今回は初代内閣総理大臣で、初代兵庫県知事の伊藤博文の生涯について取り上げます。この記事では、生い立ちから倒幕運動まで、岩倉使節団に加わってから内閣総理大臣になるまで、初代朝鮮統監府に就任してから暗殺されるまでの3つの時期に分けて取り上げます。この記事の終わりに伊藤博文の子孫について取り上げます。
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伊藤博文の生い立ちから倒幕運動まで
伊藤博文は1841年に長州藩(現在の山口県光市)に生まれました。伊藤博文の生家は吉田松陰が主宰する松下村塾の近くにあったといわれています。松陰の私塾の近くにあったことから松下村塾に通うようになりました。
松下村塾には倒幕運動の第一線で活躍する高杉晋作や後に内閣総理大臣になる山県有朋らがいました。中には前原一誠のように不平士族の反乱に加わり、明治政府に敵対した人物もいました。
岩倉使節団を経て内閣総理大臣になるまで
伊藤博文は尊王攘夷・倒幕運動に参加し、明治政府に加わりました。明治政府に加わると、江戸幕府が締結した不平等条約の改善を目指して外国と交渉します。伊藤博文は岩倉使節団の副使として条約改正交渉に加わりましたが、条約改正は失敗に終わりました。
岩倉使節団はアメリカを経てヨーロッパに渡ります。伊藤博文らはドイツ(プロシア、プロイセン)で、ベルリン大学教授のグナイストとウィーン大学教授のシュタインから憲法を学びました。ドイツで学んだ憲法は君主制で日本の天皇制と近いことから、ドイツの憲法を参考にして大日本帝国憲法の起草に加わりました。
明治政府は太政官制で太政大臣が日本のトップでしたが、1885年に太政官制が廃止され、内閣制度に移行しました。伊藤博文は初代内閣総理大臣になりました。初代だけでなく5代目・7代目・10代目の内閣総理大臣も務めました。立憲政友会の初代総裁にもなり、初の政党内閣となりました。
初代統監府就任から暗殺されるまで
日清戦争の講和条約である下関条約において、朝鮮は清国から独立することが決まり、朝鮮は大韓帝国(韓国)に名前を変えました。1904年の日露戦争後に韓国の保護国化が進められます。
1905年の第二次日韓協約により韓国から外交権を接収することで保護国化しました。統監府を設置し、初代統監に伊藤博文が就任しました。1907年、韓国がハーグに密使を派遣したことが明らかになり、第三次日韓協約を締結しました。この協約により内政権を掌握するとともに韓国軍隊を解散させました。
日韓協約により軍隊が解散させられると、反日運動が拡大しました。1909年にハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の安重根に暗殺されました。安重根は翌年死刑になるとともに韓国は併合され、植民地となりました。
伊藤博文の子孫は?
伊藤博文は2度結婚しています。最初の妻はすみ子といい、松下村塾の同門で野村靖の妹でした。2人の間に子どもはいません。二度目の妻は芸者だった伊藤梅子です。2人の間には長女の貞子と次女の生子がいました。
伊藤博文は女好きで有名で、女中の間に子どもがいたといわれています。女中との間に生まれた子どもでは、長男伊藤文吉がいます。内閣総理大臣秘書官や貴族院議員を歴任しました。
伊藤博文の他の子どもには三女の朝子がいます。朝子はルーマニア公使の西源四郎と結婚し、子孫を残しています。伊藤博文のひ孫である松本悦子は元防衛庁長官の松本十郎に嫁ぎました。その息子が松本剛明で、伊藤博文の玄孫にあたります。民主党管直人内閣の頃、外務大臣を務めました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は初代内閣総理大臣の伊藤博文について取り上げました。この記事を通して伊藤博文が暗殺されるまでの生涯を知ることができました。また、伊藤博文の子孫については外務大臣や衆議院議員を務めるなどDNAがどこかに引き継がれているのかもしれません。
終わりに、紙幣について取り上げます。伊藤博文は1963年から1986年までの1000円札の肖像画になりました。岩倉使節団で紙幣の肖像画になった人物では、岩倉具視が有名です。紙幣の肖像画になった人物について注目したいと思います。
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