馬良の弟で一緒に劉備の配下に加わった馬謖。正史三国志によれば「人並み外れた才能を持っている人物」と記載されており、馬謖を非常に高く評価しています。
また蜀の丞相・諸葛孔明も馬謖を高く評価していました。しかし蜀の初代皇帝・劉備は諸葛孔明のように馬謖を高く評価しませんでした。
むしろ劉備は馬謖を嫌っているような言動までしていますが、本当に馬謖を嫌っているのでしょうか。
関連記事:馬謖が山上に布陣しなければ第一次北伐は成功したの?
関連記事:張郃がいなければ馬謖は街亭の戦いに勝っていたかも!?
劉備は馬謖を嫌っていた!?
正史三国志を制作した陳寿は馬謖伝で彼を非常に高く評価していました。また蜀の丞相・諸葛孔明や蒋琬も彼を高く評価していました。
このように蜀の重臣達がこぞって高く評価した馬謖ですが、一人だけ彼の能力を認めていないばかりか、嫌っているような素振りをした人がいました。
それは蜀の初代皇帝・劉備です。劉備は馬謖を全然評価しませんでした。劉備は病にかかると永安で療養していました。
この時劉備は蜀の丞相であった諸葛孔明を呼んで蜀の国内の政治の事や今後の展望などを語り合います。劉備は孔明と語り合っている時、蜀の人材について語ることがあり、色々な人物について語り合っていきます。劉備は諸葛孔明と人材について語り合っている時、たまたま話題が馬謖の話題になります。
諸葛孔明は馬謖が優れた人物であると評価します。しかし劉備は「馬謖は言葉ばかりで実力が伴っていない人物だ。くれぐれも彼に重要な任務や仕事を任せてはいけないよ」と注意を与えるのでした。劉備は自分の家臣達が馬謖を認めているのに一人だけ馬謖を嫌っているような言動を残していますが、馬謖を嫌っていたのでしょうか。
劉備は馬謖が嫌いだったわけじゃない
劉備は馬謖が嫌いで諸葛孔明に注意を促したわけではありませんでした。ではどうして劉備は諸葛孔明へ「馬謖は言葉ばかりで実力が伴っていない人物だ。くれぐれも彼に重要な任務や仕事を任せてはいけないよ」と注意したのでしょうか。
正史三国志にはこの部分の記載がありませんでした。そのためここからは黒田レンの推測で話を進めていきたいと思います。レンが考えるに劉備が馬謖のある性格を見抜いていたから諸葛孔明に注意をしたのでと考えられます。
馬謖の性格とは!?
劉備が見抜いた馬謖の性格とは一体何なのでしょうか。
それは馬謖が兄・馬良よりも優れていると認めてもらうため、常に馬良や他の同僚と張り合おうとする負けず嫌いな性格だった所です。
どうして黒田レンはこのように思うのでしょうか。
馬良の評価に負けない為
黒田レンは馬謖が馬良や他の同僚と張り合う負けず嫌いな性格の持ち主であると上記でお話ししましたが、どうしてこのように思うのでしょうか。それは馬良と馬謖の関係にあったと思われます。馬謖は兄・馬良が郷里の人々や荊州の名士達から「兄貴は優秀だな」と讃えられていたそうです。
また現在でも残っている「白眉」という言葉がありますが、この言葉の語源は馬良から来ております。この言葉の意味は数ある物の中で最も優れていることを指します。なぜこのような意味なのか。
それは馬良の兄弟が5人いて、その中で馬良だけが飛び抜けて優秀で、馬良の眉毛が白かったことが「白眉」の由来になっています。更に三国時代からすで「眉毛が白い馬良が優秀」だと噂されていたそうです。上記のように馬良が飛び抜けて優秀だったことを聞かされて育った馬謖としては兄・馬良に負けたくなかったでしょう。
そして劉備は馬謖の言動の端々から負けず嫌いな性格を見抜いていたのではないのでしょうか。だからこそ劉備は馬謖を重く用いらないようにと諸葛孔明に忠告していたと思われます。劉備は馬謖が嫌いであのようような発言を諸葛孔明にしたのではなく、それなりに理由がって彼が馬謖にしたのだと思うのですが、皆さんはどのように思いますか。
三国志ライター黒田レンの独り言
劉備は馬謖が嫌いで諸葛孔明に忠告したわけではないとレンは考えます。もし劉備が馬謖を嫌っていたならば、劉備に加入することが出来なかったのではないのでしょうか。また劉備が馬謖を登用した後に彼を嫌いになったとしても、馬謖を追放してしまえばいいだけです。
劉備がこれらを馬謖にしなかったのは彼が嫌いだったわけではない証左と言えるのではないのでしょうか。
■参考文献 正史三国志蜀書など
関連記事:【素朴な疑問】馬謖って失敗ばかり強調されるけど手柄とかないの?