岳飛は南宋(1127年~1279年)初期の武人です。北宋(960年~1127年)が金(1115年~1234年)により滅亡させられたことにより、軍に入隊して頭角を現しました。
一兵卒から軍の総司令官にまで成り上がりましたが、金との和議を望む宰相の秦檜や南宋初代皇帝高宗と対立をしました。その結果、子の岳雲、部下の張憲たちと一緒に無実の罪で投獄されて紹興11年(1141年)に殺されました。
39歳の若さでした。金と死ぬまで戦ったことから、「中国史上最大の英雄」と称賛されています。ところで、岳飛の性格はどうだったのでしょうか。小説やドラマでは忠義の聖人君子として描かれることが多いので、どうしても本当の性格が見えにくいのです。
今回は見えづらい岳飛の性格について解説いたします。
岳飛は口数が少ないしゃべらない人?
『宋史』巻365・岳飛伝には、岳飛の性格については、次のように記されています。
〝若い時から気骨があり、落ち着いて言葉数も少なかった〟
これだけ見ると、ただのしゃべらない人です。こんな人が、本当にリーダー・シップをとっていたのかと疑問がわきます。しかしこれは中国の歴史書によくある表現です。
特に立派な人物に対しての誇張表現なので、あまり信じるに値しません。ましてや、『宋史』・岳飛伝は、岳飛の孫の岳珂の史料を転写しているので、余計信用に欠けています。身内でしたら、良く描写するのが当たり前です。
岳飛は兵士に厳しく
岳飛の故事で有名なことは軍の規律が厳しかったことです。南宋初期は岳飛以外にも自分の軍を持っている武官が多数いました。しかし統率は乱れており、当たり前のように略奪・暴行を行っていました。そこで岳飛は軍律を作り、軍を統率しました。
農作物は1本の麻でも盗んだり、踏み荒らすことも禁じました。また、農民から物を手に入れる時は金を支払うことを徹底させました。さらに、軍律を犯した兵士は処罰もしました。
この軍律は農民には喜ばれましたが、兵士は芯から納得しませんでした。岳飛は最終的に、かつて軍律違反で処罰した部下の王貴に虚偽の密告をされて、投獄されました。
つまり、思想面で兵士を統率できなかったのです。
皇帝に対する不敬罪
金との戦いで功績を挙げていくうちに、岳飛は節度使の位を授かりました。節度使は武将がもらう名誉職です。この時、岳飛は32歳でした。
得意になった岳飛がこのようなセリフを残しています。
「32歳で節度使になったのは、太祖と俺ぐらいだ」
太祖とは北宋の建国者の趙匡胤です。皇帝に対しての不敬罪です。
こんな口の軽い男のどこが、〝落ち着いて言葉数も少ない〟のでしょうか。
岳飛は先輩に対しての敬意ゼロ
岳飛はかつて、張俊という人物の副官になっていた時期があります。張俊は岳飛の先輩にあたる人物です。盗賊の出身で学問はありませんが、腕っぷし1つで出世した生粋の軍人です。岳飛も最初は張俊に対して敬意は持って接していましたが、出世するにつれて、口調や態度もタメ口になりました。
昔の『週刊少年チ〇ンピョン』の不良マンガでしたらケンカが始まります。
・・・・・・なんだか話が脱線しそうなので戻します。
さて、そんな張俊も宰相の秦檜から、岳飛を無実の罪に落とす計画を持ちかけられます。秦檜は金との和議において、岳飛が邪魔なので張俊に協力してほしかったのです。今までの怨みを晴らす絶好の機会だったので、張俊はすぐにその計画に乗りました。
張俊は岳飛から処罰されて怨みを抱いていた王貴を仲間に入れて、一緒に虚偽の密告をしました。こうして岳飛は無実の罪に落とされて、命を落としました。
宋代史ライター 晃の独り言
こうしてみると、岳飛が命を落としたのは自身の性格にも問題があったと言えるかもしれません。
〝身から出た錆〟という言葉がありますが、岳飛にはぴったりな言葉だと思います。この話は現代に生きる我々に重要な話だと思います。なお余談ですが、秦檜に協力した張俊は朝廷で高官になることもなく、生涯を終えています。岳飛謀殺が終えれば、秦檜から見れば彼も用済みなのです。
※参考
・井波律子『裏切り者の中国史』(講談社選書メチエ)
・寺地遵『南宋初期政治史研究』
・外山軍治『岳飛と秦檜 主戦論と講和論』(冨山房 1938年)
・山内正博「南宋政権の推移」(『岩波講座世界歴史9』 1970年所収)
関連記事:宋代の青磁と骨董マニアの宦官・童貫の生涯