西夏(1038年~1227年)は現在の中国の甘粛省・寧夏回族自治区に建国されていた王朝です。通称タングート族と呼ばれています。
当時、中国を支配していた北宋(960年~1127年)とは戦争を行うほどの対立関係でした。北宋滅亡後は南宋(1127年~1279年)とも対立することになりますが、北宋ほどの激しい関係ではありません。
最後はモンゴルのチンギス・ハンにより滅ぼされました。
ところで、この西夏の文化はどんなものでしょうか。
今回は西夏の文化について解説致します。
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略奪冒険家 スタイン
そもそも西夏の文化は、どうして世に知られたのでしょうか。
それについては、このような話があります。
1907年のことです。かつて、西夏の領域下だった敦煌に有名な石窟寺院がありました。敦煌といえば、井上靖の小説で有名な場所です。さて、その石窟寺院に王道士という1人の住職がいました。
ある日、王道士は石窟寺院に隠されていた大量の巻物や古文書を見つけました。しかし、王道士は見ても分からないので誰にも言わずにそのままにしていました。ところが、どこから情報が漏れたのか不明ですが、中央アジアを探検していたイギリスのスタインがやって来ました。
スタインがそこで驚愕の行動に出ました。なんと王道士を脅迫して、巻物や古文書を持ち去りました。当時だから許されたのでしょうけど、今でしたら文化財の略奪で国際問題になります。
イン〇ィジョーンズだったら、完全に悪役のやるポジションです。結局スタインが原因で、1908年にはフランスのペリオも来て、やっぱり持ち去りました。話を聞いた中国政府は、急いで保存に乗り出しましたが、ほとんどがフランスやイギリスの手に渡りました。
この文書の大部分は今日、大英図書館・パリ国立図書館・北京図書館で見ることが可能です。中身の大半は、仏教の経典が多いようです。
誰が・いつ頃、石窟寺院に大量の古文書を隠したのかは永遠の謎です。
西夏での儒教ブーム
北宋の第4代皇帝仁宗の慶暦8年(1048年)に西夏の初代皇帝の李元昊は亡くなりました。
その後、2~4代目の皇帝は10歳未満で即位ばかりでした。そのため、母親が摂政を行うことが当たり前でした。2~4代目の皇帝に共通している点は、母親が摂政を行っていた点だけではなく、大の漢文化マニアでした。
特に儒教が大好きでした。皇帝たちは母親の死後、自分が政治の舵をとりはじめると、行い始めたのが中国の古典の翻訳でした。
西夏語に翻訳された樹居関係の書物
特に『論語』・『孟子』・『孝経』などの儒教関係の書物は西夏語に翻訳されました。
また、翻訳だけでは満足できないのか様々な注釈書を作成しました。
よく分からない西夏の仏教
前述の石窟寺院の古文書の話からも分かると思いますが、西夏は仏教で知られています。
実際に西夏は、「和尚功徳司」「出家功徳司」「求法功徳司」という役所を設けていました。
このことから、仏教の隆盛を積極的に援助していたことが分かります。
ところが、西夏の仏教は不明な点が多くあります。
・どのような性格を持つものか?
・国内でどのような変遷をたどったか?
・土着の宗教とどのような争いがあったのか?
このような疑問を検討する史料が見つかりません。「古文書や遺跡があるじゃないか!」と言いたくなるでしょう。確かに仏教美術品や絵画も見つかっていますが、数は多くないのです。西夏の仏教は今でも未知の内容が多くて、研究段階です。
宋代史ライター 晃の独り言
今回は分からないばかりで、がっかりさせてスミマセン。でも、研究とはこんな事が多いのです。
まあ、すぐに分かっても面白みはないですしね・・・・・・
※参考文献
・西田龍雄「西夏王国の性格とその文化」(『岩波講座世界歴史9』所収 1970年)
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