秦の始皇帝や前漢王朝の劉邦・後漢王朝の劉秀は、政権のトップとして色々な事を自分の好きなようにしてきました。三国時代の蜀・魏・呉それぞれの皇帝も自分で考えた事を実行して政権を運営しています。
しかし孫呉の二代目皇帝・孫亮は皇帝になったにもかかわらず、自分の思うような事をほとんどできませんでした。
皇帝・孫亮誕生!!
孫亮は二宮の変で孫和が皇太子の位を外された後、孫権の皇太子としてに任命されます。その後孫亮は孫権が亡くなった後、孫呉の二代目皇帝として就任。
こうして孫呉は孫権の治政から孫亮の治政になりますが、政権を自らの意思で動かすことができませんでした。その理由は孫権の遺命があったからです。
「OK」皇帝・孫亮登場!!
孫権は亡くなる前に諸葛恪を孫亮の後見役に任命。諸葛恪は孫権が亡くなると孫亮の後見役だった事もあり、孫呉の政権を運営していくことになります。
孫亮は諸葛恪が決めた政治の政策に反対することなく、「OK」と言うだけで、自らが考える政治の政策を決めることができませんでした。
こうして孫亮は諸葛恪の言われるがままに書類にOKと書いたり、諸葛恪から「この政策やっていいですか」と言われて「OK」と言うだけの操り人形のような皇帝でした。孫峻は諸葛恪のやりたい放題の政権運営の仕方に激怒し、皇帝・孫亮へ「やりたい放題の政治をしている諸葛恪を殺害して、政権を健全化しましょう」と相談。
孫亮は孫峻の相談にも「OK」と返事を出します。孫峻は孫亮から承諾を得ると、諸葛恪を酒宴に呼び出して彼を殺害することに成功。孫亮は諸葛恪を殺害することに成功した事で、政権を自らの考えで動かすことができるようになり…ませんでした。
どうして孫亮は政権を運営していた諸葛恪を倒したのに、自分の思い通り政権を動かすことが出来なかったのでしょうか。
孫峻が政権を思い通りに動かしたから
孫亮は孫峻の提案で政権を思い通りに動かしていた諸葛恪を倒すことに成功したので、彼に大将軍と丞相の位をご褒美としてさずけます。孫峻は孫亮から大将軍・丞相の位をもらうと、自分の思い通りに政権を動かし始めます。
そのため孫亮は再び操り人形のような皇帝になってしまい、自分の思い通りに政権を作ることができませんでした。孫峻は大将軍・丞相の位を使ってやりたい放題政権を動かしていきますが、病によって亡くなってしまいます。
孫亮は孫峻が亡くなった事で自分の思い通りにようやく政権を動かしていくことができるように…なりませんでした。
孫綝が丞相となって政権をやりたい放題動かす
孫綝は従弟であった孫峻が亡くなると彼の権力をすべて引き継いで政権を思い通りに動かします。彼の行った政治は傍若無人だったので、重臣達が怒って彼を殺害しようと試みますが失敗。
皇帝・孫亮も孫綝の政治のやり方に何度も反対しますが、結局孫綝に押し切られて賛成するしかない状況でした。そのため孫亮は怒って彼を殺害する計画を立てて実行に移します。
しかし孫亮の計画は皇后が孫綝へ密告したため、孫綝殺害計画がバレてしまい、失敗に終わってしまうのでした。そして孫亮は孫綝の怒りを買ってしまった為、皇帝の位から引きずり降ろされてしまいます。
こうして孫亮は皇帝に即位してからほとんど自分の思う通りに政権を動かすことなく、皇帝の位から去ることになるかわいそうな人でした。
三国志ライター黒田レンの独り言
孫亮は皇帝になっても政権を自ら動かすことができず、何にもできませんでした。しかし孫亮は皇帝になって政権を動かすことができませんでしたが、一つだけ自分の意志で決定して実行できたことがありました。
それは孫亮を守る近衛兵の創設です。孫亮は孫綝を殺害しようと考えてから近衛兵団を創設しますが、孫亮率いる近衛兵団も孫綝の権力にあらがうことができなかった事を考えると、孫綝の権力がとてつもなく強大だったことが伺えるのではないでしょうか。
■参考文献 正史三国志呉書など
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