呉の2代皇帝孫亮は、孫権の7男で、多くの兄が存在する事から本来なら帝位に就く可能性は薄い人物でした。
しかし、孫権最晩年の大失敗、二宮の変により孫亮は、僅か9歳で皇帝の位に就く事になり、その後は、諸葛恪、孫峻、孫綝という独裁者の操り人形となり、ついに主体性を発揮する事なく廃位に追い込まれた上に、僅か17歳で自殺を選ぶ結果になります。
今回の、はじめての三国志は、二宮の変が狂わせた孫亮の運命について解説します。
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孫権の寵妃、潘淑と孫権の間に誕生
孫亮は、西暦243年孫権と寵妃、潘淑の間に誕生します。実に、孫権62歳の時に出来た子供で孫権は、それこそ孫のように孫亮を可愛がりました。しかし、孫亮の生まれた頃の呉は平穏ではありませんでした。
皇太子であった孫登が241年に死に、次の皇太子として孫和が立てられますが、孫権は魯王の孫覇も寵愛したので、呉の家臣は孫和派と孫覇派に分裂して、後継者争い二宮の変が激化していたのです。
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悪女、孫魯班の画策で幼帝として即位
熾烈を極める孫和派と孫覇派の争いに原因を造った孫権も飽きてしまい、何も知らない孫亮への偏愛が強まります。ここで、孫覇を担いでいた孫権の娘の全公主こと、孫魯班が孫覇を見限り孫亮を抱きこもうと画策を開始しました。孫魯班は、夫の全琮の一族の全尚の娘を孫亮に嫁がせた上で、孫亮を時期皇帝にするように、父の孫権に働きかけます。
孫権もこれに同意し、今までの事を無かった事とし、孫和は幽閉、孫覇には死を与え、西暦250年、孫亮を皇太子に指名しました。
しかし、すでに当時、孫権は高齢で病気がちであり、とても孫亮が成長するまで後見できず、諸葛恪、孫弘、滕胤の3名を補佐役として指名し252年に71歳で崩御します。かくして、孫亮は9歳で少年皇帝として即位する事になります。
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諸葛恪が後見になるもすぐに独裁者に変貌
元々、呉は豪族の寄せ集まりの連合王国であり、皇帝とはいえ孫家の権力は限定されていました。それでも孫権に関しては、半世紀の治世で強いリーダーシップを発揮出来ましたが、9歳の孫亮にそれが望めるわけもありません。
諸葛恪は太傅として孫亮を補佐する役割でしたが、すぐに独裁傾向が強くなり、特に合肥新城の敗戦で魏に敗北すると、求心力が低下して猜疑心を強め、反対者を次々処罰するなど行動が荒れます。
これを受け、元々、諸葛恪を支持していた孫峻は諸葛恪の排除を企て、孫亮の支持を得た上で、宮廷での宴席に諸葛恪をおびき寄せ、皇帝を蔑ろにした罪で誅殺し、実権を握り丞相となります。
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孫峻が諸葛恪を継ぐも、こちらも独裁者に
しかし、孫峻も内心では少年皇帝孫亮を重んじる気など微塵もなく、ただ諸葛恪に取って代わっただけでした。さらに、宮中の事を取り仕切っていた王族の孫峻は、外様の諸葛恪より、さらに遠慮がなく、孫亮の叔母にあたる孫魯班とウヒョ!関係を結ぶと、増々増長、孫亮の後宮に堂々と押し入り、宮女と毎晩ウヒョ!ウヒョ!するなど事実上の皇帝のような振る舞いをします。
この横暴に、呉の国内では孫峻への不満が爆発し、王族を中心としたクーデター計画が次々に起きますが、小心で猜疑心が強い孫峻は、いずれも未然に防いでいました。
ところが、求心力の低下を魏への北伐で補おうと、諸葛恪のようなアイデアを実行したのが運のツキ。魏の毌丘倹・文欽の乱に乗じようと出兵するも成果はなく、広陵に築城しようとして失敗し、民衆に多くの餓死者を出し将兵の心も孫峻から離れていきました。
それでも孫峻は、北伐の真似事を続け、青州・徐州方面に、魏の降将文欽、呂拠、劉纂、朱異、唐咨を先遣隊として動員、江都から淮水・泗水の流域に侵攻させます。
しかし、自身が殺した諸葛恪に殴られる夢を見てからは、精神面で変調が起こり256年の9月に急死しました。
今度は孫綝がやりたい放題
急死する前に孫峻は、従弟の孫綝を侍中、武衛将軍・領中外諸軍事に任命します。
孫綝は権力を継承すると
「ん~、もう指導者が死んでんのに、北伐するとか、北伐しないとか…それどこじゃねえんだぞコラ!お前ら戻ってこいコラ!戻ってこないと、お前らコラ…呉のリングはまたがせねえぞコラ」と長州力口調で、帰還命令を出しました。
しかし、孫綝の権力継承を認めない呂拠は反発し、文欽・唐咨と連名で滕胤を丞相とするように推薦します。
孫綝はこれを拒否し、文欽と唐咨を抱き込んで、軍を派遣して呂拠を討伐し一族皆殺しにすると、名声が高い滕胤にも軍を送って撃破し一族を滅亡に追い込みました。
こうして、反対者を抹殺した孫綝は大将軍となり、権力を安定させると、やっぱり、孫亮そっちのけで諸葛恪や孫峻同様に独裁体制を敷きます。
いやー個性の違う諸葛恪、孫峻、孫綝ですが、孫亮に配慮したという記述がないのは見事に一貫していて学級崩壊している呉の政治状態のカオスが窺い知れます。
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