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織田信長は迷信深かった?彗星を恐れた信長

2019年9月22日


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織田信長といえば、合理主義で迷信の類を信じない革新的な戦国大名として有名です。

しかし、現実の話、織田信長は16世紀に生きた人物であり、当時の社会常識から完全に自由ではありませんでした。

そればかりか真実の信長は迷信深い人で、彗星(すいせい)を恐れていたようなのです。

今回は、信じるも信じないもあなた次第、迷信深かった織田信長について解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1577年の彗星に対する松永久秀の合理主義

 

西暦1577年、松永久秀(まつながひさひで)は、上杉謙信(うえすぎけんしん)毛利輝元(もうりてるもと)石山本願寺(いしやまほんがんじ)などの反織田勢力と呼応、勝手に天王寺砦(てんのうじとりで)を離れて

本願寺攻めから離脱し信貴山城(しぎさんじょう)に立て籠もり、信長との対決姿勢を見せました。

松永久秀

 

松永久秀はすでに1572年に一度、三好三人衆と組んで(そむ)いているので二度目の謀反です。

主君である信長は驚き、久秀の謀反を考え直させようとしたらしく、松井友閉(まついゆうかん)を派遣して

「どうして叛いたんだよ、不満があれば聞くぞ」と間抜けな事をしていますが、久秀は松井に会おうともしませんでした。

上杉謙信

 

ところが上杉謙信(うえすぎけんしん)は加賀・手取り川の戦いで柴田勝家(しばたかついえ)らの織田軍を撃破後、何故か上洛を断念しそこから引き揚げてしまい久秀は万事休す。

しかし、今さらどうしようもなく、織田信忠(おだのぶただ)を総大将とする4万の大軍に攻め寄せられ落城の時を迎えます。

 

その頃は旧暦の10月初頭、1577年の大彗星が信貴山城の頂きからもハッキリ見えたそうです。

この大彗星、絶対等級-1.8等と非常に明るく、世間では松永久秀の官名から弾正星(だんじょうぼし)と呼ばれていました。

 

 

そこで久秀の家来が被虐的(ひぎゃくてき

「京の卑しい連中が、あの星を弾正星などと呼んで殿の滅亡を天が告げたと騒いでいましたがその予言が当たってしまいましたな」と話かけます。

 

戦国時代、彗星は凶事の徴であり、家来の反応は特別に迷信深いものではありません。

しかし、久秀は西の空に輝く彗星をちらりと見ただけで大笑いして言い放ちました。

 

「ばかな、彗星というのは天文自然の理に従っているだけよ、わしも信長も天の摂理には何も関係ない」

 

合理主義者らしい一言を放ち、直後に久秀は自決して果ててしまいました。

 

 
 

彗星を一蹴した久秀と彗星を恐れた信長

泣いている織田信長

 

さすがは合理主義思考では信長に劣らない松永久秀、きっと信長もそうなのでは?と思いますが、信長の対応は久秀とは真逆でした。

織田信長は大彗星が出現していた期間、(けが)れを恐れてか安土から一歩も出ていないのです。

信長公記によると旧9月28日と29日の2日間だけ外に出ていますがそれは部下である丹羽長秀(にわながひで)の屋敷でした。

 

どうして、部下の丹羽長秀の屋敷に移ったのか?

実は、1577年の彗星が夜空に出現したのは、1577年の旧暦9月28日なのです。

突然に出現した彗星に信長は驚き、山の上の屋敷から、もう少し低い位置にある丹羽長秀の屋敷に避難したのではないかと推測されます。

ただ、信長公記では、彗星が出現したのは9月29日になっていて一日ズレますがそれでも29日までは泊まっていたわけです。

 

いずれにせよ、信長は彗星が頭上に輝く間は決して安土から出ようとせず、久秀の討伐は息子の信忠(のぶただ)に任せてしまいました。

次に信長の動向が分かるのは信長公記では、11月13日で上洛して二条の新居に入ったという記録からです。

信長は1577年閏7月14日から安土にいますから、丸々4カ月安土に滞在していた事になります。

織田信忠

 

「そんなのは偶々(たまたま)で、信貴山攻めだって息子に経験を積ませる目的だったんじゃないか?」

かも知れませんが、事実として信長は大彗星が空に輝いている間、安土から出ようとはしていないのです。

そして、彗星が出現した日から二日間、理由不明なまま丹羽長秀の屋敷に移動、これは彗星を恐れたからではないでしょうか?

 

織田信長スペシャル

 

1577年の彗星に拘った織田信長

キレる織田信長

 

「いくらなんでも、ただの彗星を恐れるほど織田信長はチキンじゃないんじゃないの?」

 

確かにkawausoもそのように感じますが、実は1577年の彗星はハレー彗星のような定期的に地球を横切る彗星ではなく

突然出現した非周期の彗星でした。つまり、朝廷の天文方でも、彗星の出現を予知できなかったのです。

冒頭に織田信長は迷信深かったと書きましたが、それは信長が非合理的な人物という意味ではありません。

 

むしろ、信長は合理的思考をする人だったので余計に忽然と出現した彗星を恐れて、不吉なモノと考えたかも知れないのです。

これは、全ての現象を科学で解明できると豪語する人が、実際に超常現象に遭遇して全容を解明出来ずに慌ててしまうのに似ています。

 

「なんで天文方は、彗星の出現を予知できないんじゃ!納得いかん」

 

合理主義者の信長は彗星を予測できなかった天文方に不信感を持ったのではないでしょうか?

 

それから5年後の1582年の正月、織田信長は、当時、京暦と三島暦に別れていた暦を三島暦で統一するよう朝廷に働きかけます。

当時、日本では複数の暦が使われており、東日本の三島暦と西日本の京暦では日付が食い違い、様々な問題が起きていました。

信長としては天下統一の布石としても、暦の統一を求めたのですが、朝廷の権威に対する挑戦であり無礼と退けられます。

しかし、同年、6月1日、天文方は日食を見逃してしまい、三島暦が日食を的中させるという事件が起きました。

 

「ほれ見ろ、やはり三島暦の方が優れているではないか!」

裏切りそうな悪い顔をしている明智光秀

 

信長は再度改暦問題を持ち出そうとしますが、翌日に明智光秀による謀反に倒れるのです。

彗星と日食は違いますが、信長が天文に並々ならぬ関心を抱いていた事が分かります。

この問題も最初に1577年の大彗星の出現を予知できなかった天文方への不満があっての事ではないかと思います。

セミナリオ(教会)

 

さて信長が恐れて安土に引きこもってしまい、松永久秀が天体の運動だと切り捨てた1577年の彗星は西洋でもティコ・ブラーエが観測しており、

彗星が大気中の現象ではなく、地球より遠くに存在する事が証明されます。

 

当時の大彗星の記述では、

「火を噴き出し、末端は煙になっている巨大な輝く球体の塊」というような迫力描写がなされているそうです。

松永久秀の死に臨んでの剛毅(ごうき)な態度は置くとしても、何の予兆もなしに、自分が治める国の上空に忽然と火を噴く巨大な輝く球体が出現したら、

信長でなくても不安になると思うのですが、どうでしょうか?

 

本能寺の変とグレゴリオ暦の奇妙な因縁

遣唐船(奈良時代)

 

どうして、京暦は日食を外してしまったのか?

それは京暦が862年に日本に伝来した唐の宣明暦(せんめいれき)を元にしたものだったからです。

当初は機能していた宣明暦も、700年の間には、次第に誤差が生じて実際の時間との間にズレが生じてしまっていたわけです。

 

一方の三島暦は、鎌倉時代から作られている伊豆国(いずのくに)の三嶋大社の暦師(れきし)、河合家が自前の天文台で星や月を正確に観察して造っていました。

歴史が新しい分は、三島暦の方が日食のような天体現象は的中しやすかったのでしょう。

 

信長が本能寺で倒れてから5か月後、西洋ではユリウス暦から、現在使われているグレゴリオ暦に変わりました。

ユリウス暦は紀元前45年、かの英雄ジュリアス・シーザーが導入した太陽暦でしたが、128年で1日のズレが生じます。

1582年までには、11日間のズレが出ていて農業に不便を生じていたので改暦される事になったのです。

ジュリアス・シーザーも、織田信長も身内に暗殺された事では奇妙に共通していますね。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

本当かどうかわかりませんが、宣教師の記録では1582年、5月14日の夜9時にも彗星が出現し大変に長い尾を引いて数日間続き、

その後、安土山に彗星の如きものが天より落ちたと言います。

そうだとすると、1577年の彗星と言い、信長の人生は日食や彗星に奇妙な縁がある一生と言えるでしょう。

得体の知れない彗星に恐れ慄いた織田信長、これを信じるか信じないかはあなた次第です。

 

参考文献:現代語訳信長公記 新人物文庫

参考サイト:IRONNA信長が恐れた「凶星」本能寺の変はここから始まっていた 橋場日月()

 

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麒麟がくる

 

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