2020年のNHK大河ドラマは明智光秀が主人公の麒麟がくるです。
これまで敵役としてしか描かれてこなかった謀反人光秀が主役になるとどう描かれるか興味は尽きません。特にライバルである羽柴秀吉との関係はどうなるのか見物ですね。ところでドラマはドラマとして、史実の光秀と秀吉ではどちらが織田政権で出世したのでしょうか?
関連記事:明智光秀は織田信長に何回殴られた?カウントしてみた
関連記事:山崎の戦いってどんな戦いだったの?明智光秀VS羽柴秀吉が激突した戦
この記事の目次
ラウンド1:仕官したのは秀吉が先だけど・・
まず、二人が織田家に仕官した時期を見てみましょう。羽柴秀吉が織田家に仕官したのは、天文に十三年(1554年)で、木下藤吉郎時代の十八歳頃だと考えられています。仕官の経緯については、①信長に直訴した、②知人の紹介、③信長の側室吉乃の紹介などがありますが不明です。身分は最下層の小者であり、恵まれたスタートというわけではありません。
一方の明智光秀が織田信長に仕えたのは、永禄十一年(1568年)十月であり、光秀はすでに十五代将軍を自称した足利義昭に仕えた幕臣のようです。この時も信長が義昭を奉じて上洛するのを送迎した一員として登場しているので華々しいデビューと言えます。
秀吉の仕官に比較すると十四年も遅く明らかな新参者ですが、すでに室町幕府の直臣であり教養も豊かで農民出身の秀吉から見ると、妬ましくも眩しく映ったかも知れません。
明智光秀の出自については、①名門土岐氏の出身②その支流の没落した一族、③正体不明の素浪人まで説がありますが、少なくとも、1568年の段階では足利義昭に仕えており、それなりに部下を引き連れているという理解で間違いないでしょう。
「けっ!新参のオッサンの癖にお高く留まりやがってよォ」くらいに秀吉は内心で悪態をついていたかも・・
ラウンド2:城持ち大名になったのは光秀が先!
戦国時代に生まれた武士にとっては、自分の城を持つのは大きな夢でした。いわゆる城持ち大名になる事が戦国武将のステータスだったわけですが、光秀と秀吉ではどちらが先に城持ち大名になったのでしょうか?
これは明智光秀が先でした。明智光秀は主君信長でさえ「神罰コワイ」と躊躇した比叡山の焼き討ちを率先して進めて手柄を立てたのです。人の嫌がる仕事を率先して為した光秀に信長は元亀二年(1571年)9月には延暦寺の所領も含む滋賀郡を与えました。
光秀は待ってましたとばかりに同年十二月には坂本城を築城し、神聖な比叡山の神木まで伐採して使い、翌元亀三年十二月には立派な天守閣を持つ平城を完成させています。※続群書類従 第29輯
そして、これは織田家の家臣団の中では第一号でした。秀吉がどうこうではなく、柴田勝家や丹羽長秀などの古参よりも早いのです。また坂本城は安土城に次ぐ天下の名城と謳われていました。これは秀吉でなくても織田家の古株は皆焦り、面白くなかったでしょう。
一方でライバルの秀吉が城持ち大名になるのは、浅井長政が滅亡した天正元年(1573年)9月、江北長浜に長浜城を築城した時で、光秀よりも二年程遅れていました。
ラウンド3:羽柴秀吉の外交チャンネルに光秀焦る
こうして、織田家中城持ち大名第一号になった光秀ですが、秀吉も負けてはいません。二年遅れとはいえ、坂田、浅井、伊香の江北三郡を与えられた秀吉も城持ち大名となり、同時に、毛利家に対する外交チャンネルも駆使し始めたのです。
この頃、毛利氏には信長に敗れて京から追放された足利義昭が匿われていました。織田信長としては、自分の手の届かない所で義昭に暗躍されては困るので毛利氏に義昭の返還を求めており、それには秀吉が最適だったのです。
中国・山陰地方を抑える毛利氏は十カ国を領有する大大名であり、この毛利氏とのチャンネルが秀吉にあるという事は、今後の対毛利政策を秀吉がリードする意味を持ちます。
外交交渉が上手くいけば、秀吉には毛利氏の利権のいくばくかが与えられますし、逆に決裂しても前線に立って奮戦すれば中国から九州に至る広大な版図が秀吉に与えられる可能性があります。
それを裏付けるように、秀吉の官名は羽柴筑前守であり、山陰・中国ばかりか九州まで平定して、南蛮貿易の利権まで握ろうという野心までちらつかせます。
今は柴田勝家さえ凌駕し織田家筆頭の光秀ですが、外様の狡猾な遣り手という評判で古参の家臣全員から嫌われていて、何かあれば袋叩きになる恐れも否定できません。
「あのハゲ鼠、欲深い野郎だが人心だけは得ているからな・・何か手を打たねば」
そこで光秀は、孤立する明智家を縁組で繋ぎ止めようと、娘の玉子を細川忠興と婚約させたり、息子を筒井順慶の養子に入れたり、荒木村重と縁戚になったり、信長の弟、織田信行の息子である織田信澄に娘を縁組するなど閨族の力による権力の安定を図るようになります。これは、中々子供が出来なかった秀吉には出来ない事ですから、秀吉から見れば
「こっ、この種馬野郎、、次から次にー!」と見えたでしょうか?
ラウンド4:信長を徹底リサーチし光秀優勢
外交チャンネルを駆使し、足利義昭返還に賭けた秀吉ですが、交渉は決裂、義昭は紀伊に移動してしまい秀吉のアドバンテージが吹き飛びます。光秀にチャンス到来!ここから光秀は徹底して信長の意に沿うべく、その性格を綿密にリサーチ、特に長篠の戦いにおいて、光秀は鉄砲と弾薬の調達で信長をアシストし勝利に貢献しました。
さらに光秀は戦いを続けながら、分かりやすい報告書を作成しマメに信長に報告します。段々と戦線が拡大し、部下の動きが見えにくくなりイラつく事もあった信長に取り、目に見えるような報告書を書く光秀はお気に入りの部下でした。
天正三年、七月、明智光秀は惟任日向守に任命されていますが、日向とは紛れもなく九州であり、信長が光秀を西国調略の重要な人材として見ていた事が窺えます。一方の秀吉は、永禄十二年(1566年)から但馬攻めをしていましたが、それから9年経過しても攻略できない状態でした。一度追い抜かれた光秀は、足踏み状態の秀吉を追い抜いてみせたのです。
【次のページに続きます】