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まるでダチョウの竜ちゃん?織田信長は部下に呼び捨てされていた


 

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鼻をほじりながら無関心な織田信長

 

目上の人を呼ぶって難しいですよね。普段は温厚な人も名前の呼び方一つでムッとして険悪な雰囲気になったりします。現代でさえそうなのだから、身分に上下がある事が当たり前だった戦国時代ならば猶更(なおさら)、と思いきや、あの魔王信長(まおうのぶなが)が部下に呼び捨てにされていたというまるでダチョウ倶楽部の(りゅう)ちゃんのような事実が判明したのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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文書で部下に呼び捨てられる信長

 

あの気性の激しそうな信長が部下に呼び捨てを許していた?その証拠は、織田軍団が京都に上洛した直後の永禄(えいろく)十二年(1569年)正月、織田家家中の丹羽長秀(にわながひで)が信長の意を受けて出した遍照心院(へんしょうしんいん)(大通寺)に宛てた文書にあります。

 

先度(せんど)信長寄宿免除(きしゅくめんじょ)の朱印進ぜられ(そうろう)()(むね)別儀(べつぎ)あるべからざる候

織田信長

 

文書の内容は、先頃文書で通達したように、信長の軍勢が寺院に駐屯する事はないというものですが、赤字で示したように丹羽長秀は、主君信長をキッチリ呼び捨てにしています。しかも、これは信長公認の公文書ですから、信長は公にそれを認めているという事です。幾らなんでも、部下に対してフレンドリーすぎるのではないでしょうか?

kawauso

 

タネ明かしをすると、もちろん、信長が好きで部下に呼び捨てを許したのではありません。文書の中で信長が呼び捨てられているのは、ちゃんと理由があるのです。

 

信長の官位が低すぎて使わない方がマシだった

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

当時、文書の署名は○○対馬(つしまのかみ)守というように氏と官職名で書くのが一般的でした。

もちろん信長も、そうしようと思って出来ない事はないのですが、信長の官位である弾正忠(だんじょうのちゅう)とは、古代の律令(りつりょう)体制における監察・警察機構である弾正台(だんじょうだい)の属官でした。弾正台は主な職務として、中央行政の監察や京の風俗の取り締まりを担当していました。

弾正台の長官は弾正尹(だんじょういん)と言い、これは従三位(じゅさんみ)の高官で親王が任ぜられる事もあったのですが、信長の官位である弾正忠は三等官である判官(はんがん)でビリから一個上というだけでした。

 

判官はじょうと読み、中国の官名である(じょう)に通じます。三国志でもおなじみの丞は県令や郡太守の副官で、郡丞(ぐんじょう)や県丞と呼ばれました。

思い切りザックリ言うと、信長は当初東京都副知事の肩書でサインをしていたわけです。副知事なのに都の政務を取り仕切れば、やはり周囲は戸惑うので、面倒になり肩書はやめて宮坂学と名前を書いて朱印を押した、現代に例えるとこんな感じでしょうか?

西遊記巻物 書物

 

これでは、書状に書いても威厳もへったくれもなく、その内信長は弾正忠の署名を止めて信長の署名で押し通すようになります。案外合理的な信長なので、「名前で署名すれば京の連中も俺の名前をすぐに覚えるだろう」と簡単に割り切ったのかも知れません。

 

織田信長スペシャル

 

呼び名から見える織田軍団の自由な空気

 

 

しかし、名前一つ取っても織田軍団の風通しの良さが見えてきます。

当時の信長は35歳と若く、丹羽長秀や木下秀吉(きのしたひでよし)も30代後半、明智光秀は40歳位でした。このような若い人々が政治の中枢である京都に将軍足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて、実質上の政治を取り仕切ろうというわけです。今でいえば、行政の長、総理大臣が35歳というわけですから、かなり若い事が分かります。

宴会好きな豊臣秀吉

 

信長や光秀という教養人以外は、尾張の田舎者丸出しだったかも知れませんが自由闊達(じゆうかったつ)で実力があれば、どんどん昇進する活気のある織田政権の雰囲気が伝わってきます。

南蛮胴を身に着けた織田信長

 

やがて足利義昭と織田信長の関係は決裂、反織田包囲網等、何度も訪れたピンチを乗り越えて信長は本能寺で倒れるまで13年間、織田政権を守り抜く事になりました。大変ではあったでしょうが、活気に満ち野心に溢れたサムライ達にとって織田政権は魅力ある職場だったのではないでしょうか?

 

窮屈になっていく織田軍団

 

ところが書面上で部下が自分を呼び捨てても鷹揚(おうよう)に構えていたダチョウ倶楽部の竜ちゃんみたいな織田信長も勢力が拡大していき、部下の力が強くなってくると、次第に組織固めを図っていきます。部将たちを酷使する一方で、血縁者にはすでに開発がされた領国を与えて露骨な優遇策を推進していくのです。

キレる織田信長

 

逆に、それまで手柄さえ立てていれば部将の多少の羽目外しも大目に見ていた鷹揚さは失われ、例えば織田家の重臣の佐久間信盛(さくまのぶもり)は、何年も前の三方ヶ原の戦いでの失態での口応えや、石山本願寺と五年間対峙していながら手柄がない事を理由に高野山に追放しています。

佐久間信盛の後釜には明智光秀が座るのですが、その光秀も部下に家中法度(かちゅうはっと)を出して、織田家中の人間とはトラブルを起こさないようにと細かく注意を与え、万が一小競り合いになるようなら腹を斬るようにと過剰な程に行動に気を付けています。

 

ここからは織田家中から以前の自由さが失われていき、重苦しい減点主義が広がっていく様子が垣間見えるようです。かつて、公式な書状に信長と書いて朱印を押していたゆるくとも活気に溢れていた織田家は消えてしまっていたようです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

どんな組織でも創業最初は、カッチリと枠がハマったものではなく、社長と部下は上下関係というよりは分業関係というのが近い感じです。それが軌道にのり急速に拡大すると、どうしても互いに心を通わすよりも、規則で縛ったり、上下関係を厳しくして威厳で部下を威圧するという体制になりがちなものです。

そりゃあ、何万人の社員を抱える取締役社長が、平社員に「よっ!社長元気」なんて声を掛けられたら威厳もへったくれもありませんけど、程度によりけりという感じもしますね。

 

参考文献:明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか

 

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はじめての戦国時代

 

 

 

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