目上の人を呼ぶって難しいですよね。普段は温厚な人も名前の呼び方一つでムッとして険悪な雰囲気になったりします。現代でさえそうなのだから、身分に上下がある事が当たり前だった戦国時代ならば猶更、と思いきや、あの魔王信長が部下に呼び捨てにされていたというまるでダチョウ倶楽部の竜ちゃんのような事実が判明したのです。
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文書で部下に呼び捨てられる信長
あの気性の激しそうな信長が部下に呼び捨てを許していた?その証拠は、織田軍団が京都に上洛した直後の永禄十二年(1569年)正月、織田家家中の丹羽長秀が信長の意を受けて出した遍照心院(大通寺)に宛てた文書にあります。
先度信長寄宿免除の朱印進ぜられ候其の旨別儀あるべからざる候
文書の内容は、先頃文書で通達したように、信長の軍勢が寺院に駐屯する事はないというものですが、赤字で示したように丹羽長秀は、主君信長をキッチリ呼び捨てにしています。しかも、これは信長公認の公文書ですから、信長は公にそれを認めているという事です。幾らなんでも、部下に対してフレンドリーすぎるのではないでしょうか?
タネ明かしをすると、もちろん、信長が好きで部下に呼び捨てを許したのではありません。文書の中で信長が呼び捨てられているのは、ちゃんと理由があるのです。
信長の官位が低すぎて使わない方がマシだった
当時、文書の署名は○○対馬守というように氏と官職名で書くのが一般的でした。
もちろん信長も、そうしようと思って出来ない事はないのですが、信長の官位である弾正忠とは、古代の律令体制における監察・警察機構である弾正台の属官でした。弾正台は主な職務として、中央行政の監察や京の風俗の取り締まりを担当していました。
弾正台の長官は弾正尹と言い、これは従三位の高官で親王が任ぜられる事もあったのですが、信長の官位である弾正忠は三等官である判官でビリから一個上というだけでした。
判官はじょうと読み、中国の官名である丞に通じます。三国志でもおなじみの丞は県令や郡太守の副官で、郡丞や県丞と呼ばれました。
思い切りザックリ言うと、信長は当初東京都副知事の肩書でサインをしていたわけです。副知事なのに都の政務を取り仕切れば、やはり周囲は戸惑うので、面倒になり肩書はやめて宮坂学と名前を書いて朱印を押した、現代に例えるとこんな感じでしょうか?
これでは、書状に書いても威厳もへったくれもなく、その内信長は弾正忠の署名を止めて信長の署名で押し通すようになります。案外合理的な信長なので、「名前で署名すれば京の連中も俺の名前をすぐに覚えるだろう」と簡単に割り切ったのかも知れません。
呼び名から見える織田軍団の自由な空気
しかし、名前一つ取っても織田軍団の風通しの良さが見えてきます。
当時の信長は35歳と若く、丹羽長秀や木下秀吉も30代後半、明智光秀は40歳位でした。このような若い人々が政治の中枢である京都に将軍足利義昭を奉じて、実質上の政治を取り仕切ろうというわけです。今でいえば、行政の長、総理大臣が35歳というわけですから、かなり若い事が分かります。
信長や光秀という教養人以外は、尾張の田舎者丸出しだったかも知れませんが自由闊達で実力があれば、どんどん昇進する活気のある織田政権の雰囲気が伝わってきます。
やがて足利義昭と織田信長の関係は決裂、反織田包囲網等、何度も訪れたピンチを乗り越えて信長は本能寺で倒れるまで13年間、織田政権を守り抜く事になりました。大変ではあったでしょうが、活気に満ち野心に溢れたサムライ達にとって織田政権は魅力ある職場だったのではないでしょうか?
窮屈になっていく織田軍団
ところが書面上で部下が自分を呼び捨てても鷹揚に構えていたダチョウ倶楽部の竜ちゃんみたいな織田信長も勢力が拡大していき、部下の力が強くなってくると、次第に組織固めを図っていきます。部将たちを酷使する一方で、血縁者にはすでに開発がされた領国を与えて露骨な優遇策を推進していくのです。
逆に、それまで手柄さえ立てていれば部将の多少の羽目外しも大目に見ていた鷹揚さは失われ、例えば織田家の重臣の佐久間信盛は、何年も前の三方ヶ原の戦いでの失態での口応えや、石山本願寺と五年間対峙していながら手柄がない事を理由に高野山に追放しています。
佐久間信盛の後釜には明智光秀が座るのですが、その光秀も部下に家中法度を出して、織田家中の人間とはトラブルを起こさないようにと細かく注意を与え、万が一小競り合いになるようなら腹を斬るようにと過剰な程に行動に気を付けています。
ここからは織田家中から以前の自由さが失われていき、重苦しい減点主義が広がっていく様子が垣間見えるようです。かつて、公式な書状に信長と書いて朱印を押していたゆるくとも活気に溢れていた織田家は消えてしまっていたようです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
どんな組織でも創業最初は、カッチリと枠がハマったものではなく、社長と部下は上下関係というよりは分業関係というのが近い感じです。それが軌道にのり急速に拡大すると、どうしても互いに心を通わすよりも、規則で縛ったり、上下関係を厳しくして威厳で部下を威圧するという体制になりがちなものです。
そりゃあ、何万人の社員を抱える取締役社長が、平社員に「よっ!社長元気」なんて声を掛けられたら威厳もへったくれもありませんけど、程度によりけりという感じもしますね。
参考文献:明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか
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