南北戦争は機関砲のような大量殺戮兵器が実戦配備され、南北両軍あわせて六十万人が戦死するというアメリカ史上最大の内戦になりました。戦争は工業化が進み人口も多い北軍が物量で押しまくり、人口でも工業化でも劣る南軍を制圧して勝利しました。しかし、あまり知られていませんが、劣勢の南軍を追い詰めたのは北軍の物量だけではなく、経済封鎖により塩を止められた事が大きかったのです。
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塩不足がアメリカ独立戦争を起こす
17世紀、北米大陸にイギリス人やオランダ人、フランス人が植民の為に渡った理由は、ニシンやタラのような魚が溢れている北洋を無限の宝物庫に変える為でした。その為には魚を保存する為の塩が必要不可欠なので、探検家達は秘宝を探すようにアメリカ大陸の海岸や内陸部を探検し、インディアンと交易しながら塩のある土地を探したのです。すでに、先住民インディアンやバイソンのような野生動物が生存している以上、塩鉱が見つかったり、塩田が開かれていくのは時間の問題でした。
開拓民は生活に必要な塩を得ると、今度は塩を使って魚を加工し、インディアンとの交易で得た動物の毛皮を塩で処理して旧大陸に売りさばき、富を蓄えるようになります。しかし、イギリスはアメリカ開拓民が資本を蓄積しやがて独立する事を恐れ、意図的に塩の供給を減らして植民州の経済発展を妨害しました。これに対しアメリカ十三州が大陸会議を開いて宗主国イギリスを非難して対抗措置を取り、1776年からのアメリカ独立戦争に繋がっていくのです。
ところが、アメリカ大陸軍は必要な塩を自国で賄う事が出来ていなかったので、イギリス軍は海上封鎖でアメリカへの塩の輸出を停止。大陸軍は深刻な塩不足に苦しみます。結局、大陸会議は乏しい予算から製塩業に補助金を出したので、塩不足は徐々に解消され、1783年に大陸軍はイギリスとパリ条約を結んで独立を果たしますが、塩の供給停止がいかに国を苦しめるのかを身を持って体験したのです。
リンカーン大統領、南部連合に塩止め
アメリカ建国より七十年余りが経過した19世紀半ば、合衆国では北部と南部で深刻な経済格差が生まれます。製造業が発展して工業国になり奴隷制を必要としなくなった北部州と、綿花やタバコなど大規模農園で奴隷労働に依存する南部州です。奴隷制を必要としない北部州では1830年代、奴隷制廃止の運動が激化し、南部州は奴隷制廃止で経済が低迷する事を恐れてこれと対立します。
そんな折、1854年、アメリカ議会では、カンザス・ネブラスカ法を制定、新しく準州に昇格するカンザスとネブラスカに対して住民投票で、奴隷州か自由州になるかを決定するように取り決めます。これに対し奴隷制反対の北部と奴隷制支持の南部の住民が大挙してカンザス・ネブラスカに押し寄せ、流血の惨事になり南北の対立は急速に高まっていきます。
そして1861年、11月6日、奴隷制廃止を名言していたエイブラハム・リンカーンが十六代大統領に選出されると、サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスが合衆国から離脱、翌年、1861年4月12日南北戦争が勃発します。それから僅か4日後、北軍の大統領リンカーンは南部の港の全てを封鎖し、1865年の終戦まで、最大で2455挺の銃を搭載した471隻の軍艦で経済封鎖を続けます。当然、この中には生きる為に欠く事の出来ない塩も含まれていました。
塩止めに苦しめられる南軍
どうしてリンカーンが、南部の塩を止めたのか?それは当時のアメリカにおける塩の生産量を見れば分かります。南部の主要な塩の算出州、ヴァージニア、ケンタッキー、フロリダ、テキサスが236万5千ブッシェルの塩を生産するのに対し、北部のニューヨーク、オハイオ、ペンシルヴァニアは1200万ブッシェルと10倍の産出量を誇っていたのです。
さらに、南北戦争の当時、アメリカはまだ塩の輸入国でしたが、そのような輸入塩が運びこまれたのは、ほとんど南部の港だったのです。つまり、南部連合は塩の生産力も北部よりも低く、おまけに不足分の塩を外国からの輸入に頼っていました。リンカーンは南部の塩不足の事情を知り尽くしていて、塩を止めたのです。塩は常に南軍の糧食リストに載っていて、1864年の南軍兵士一人あたりの一カ月の支給物資は、ベーコン4.5キロ、粗粒穀物12キロ、ハードビスケット3.2キロ、米1.4キロ、旬野菜、そして塩が680gです。しかし、これはあくまで目安であってその通りに支給されたわけではありません。特に塩の不足は深刻な影響を与えました。
影響は軍隊だけではなく、庶民生活も圧迫しました。戦争前にリヴァプールで塩90キロ入りの袋がニューオリンズの波止場で50セントで売られていたものが、1863年1月には同じ塩一袋が25ドルまで急騰したのです。塩不足に悩んだ南部の家庭では、海水から塩を造ろうとしたり、一度肉や魚の保存に使った塩を溶かして黒い粒の粗悪な塩を再利用したり、塩を使わずに食品を保存する方法を色々試したのですが全て焼石に水でした。
最後の希望プディット・アンスの塩井を北軍に奪われる
塩不足に悩む南部連合に、にわかに希望の光が差したのは、1862年5月4日、ルイジアナ州プティット・アンスで黒人奴隷が井戸を掘っている最中に塩井を発見した事です。プディット・アンスの塩の埋蔵量は七百万トン、それも後世では控えめの数字だと判明します。これは、塩不足に悩む南部連合を全て救ってなお余りある莫大な塩であり、すぐに契約が殺到し塩の採掘が始まります。ところが、プディット・アンスの塩井の情報はあっと言う間に北軍に察知され、数回の攻撃にさらされた製塩工場は北軍の前に陥落しました。本来なら何としてもプディット・アンスを死守すべきだった南軍ですが敗戦に次ぐ敗戦と物資不足で、ろくろく守りを固める事も出来ませんでした。
1865年4月9日、南軍の総司令官ロバート・リー将軍は北軍のグラント総司令官に降伏し南北戦争は終結します。この時リー将軍はグラントに対し、部下が二日間飲まず食わずなのでどうか食事を与えて欲しいと頼みました。グラントが馬車に食糧を載せて南軍将兵の元に向かわせるとヴァージニア北部の飢えた将兵の間から大歓声が上ったそうです。
kawausoの独り言
塩はアメリカ合衆国の建国と南北戦争に大きな影響を与えました。アメリカは宗主国イギリスの塩のコントロールに怒って独立戦争を戦い、塩不足に悩みながらイギリスを撃退し、南北戦争では物量と人口に勝る北軍が塩を輸入に頼っていた南軍と南部諸州を苦しめ、ついに降伏に追い込んだのです。
「塩は重要な戦時禁制品である、食肉保存用の塩なくして軍は存続できないからである」とは、戦車の名前にもなった北軍の将軍、ウィリアム・テムカセ・シャーマンの言葉です。ここまで何千文字を費やすより、シャーマン将軍の一言が戦争の帰趨を雄弁に語っていますね。
参考:塩の世界史(下)歴史を動かした小さな粒
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