ローマの英雄にして独裁者、ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日に制定されたユリウス暦ですが、この暦にも欠点が存在していました。それは現実の太陽年より一年が11分4秒長すぎた事です。これは、一年や二年でどうにかなるような代物ではありませんが、100年では1日のズレが生じ、16世紀には、10日のズレが生じていました。
それは、キリスト教世界における復活祭の主日の特定に大きな問題を引き起こし、ユダヤ教、イスラムの暦学者の嘲笑のタネになっていたのです。1582年ローマ教皇グレゴリウス13世は、1600年以上続いたユリウス暦の廃止を断行、ここにグレゴリオ暦が誕生しました。今回はこのグレゴリオ暦が世界の時を支配するまでを解説しましょう。
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この記事の目次
カトリックの復権をカレンダーで目指した教皇
ユリウス暦の欠陥は、すでに2世紀のローマの学者プトレマイオスにより指摘されていました。しかし、当初はカトリック教会は、暦の改定に極めて消極的でした。教会は「時は神の領分」を言い訳にし、これに人の手を入れる事を不遜だと言い張ります。でも、本当は改暦の作業が面倒臭く、お金も掛かる事、それに、当時の欧州では教会の権威が絶対である事にあぐらをかいていたのです。
1267年、高名なフランシスコ修道会の修道士にして天文学者、ロジャー・ベーコンはローマ教皇クレメンス4世に対し文書を送り「我々の暦は、理性への冒涜であり健全な天文学の面汚しであり、数学者へのおふざけです」と改暦の必要性を訴えますが、教皇は一顧だにしませんでした。
ところが16世紀に入ると、教皇レオ10世が出した贖宥状、いわゆる免罪符に対するルターのようなプロテストからの宗教改革の狼煙が上ります。それまで唯一絶対だったカトリックはプロテスタントの台頭により地位が揺らぎ始めたのです。
また、経済の発展により、民間でもより正確なカレンダーが必要とされ教会の暦ではない民間暦も出回るようになります。これを受け、226代ローマ教皇グレゴリウス13世は、ズレたまま放置されているユリウス暦を改暦して、時の支配者であるカトリックの権威を印象づけようとしたのです。
コペルニクスがグレゴリオ暦に協力した
新しいカレンダーの計算には、もちろん正確な太陽年の計測が不可欠です。その信頼に足るデータを出したのは、あの地動説を唱えたポーランドの聖職者コペルニクスでした。1514年、贖宥状で悪名高い、レオ10世がラテラノ公会議で改暦について、意見聴取した時に、改暦に必要な太陽年の割り出しデータを提供したのがコペルニクスだったのです。この時のラテラノ公会議に見るべき意見はありませんでしたが、コペルニクスのデータは残され、後のグレゴリオ暦に活かされました。
実は、コペルニクスが集めたデータは、彼が亡くなる直前に発行した「天体の回転について」という本の根拠にしたもので、彼は地動説を結論づけるためのデータを教会に提供していた事になります。皮肉なものですね。
一気にカトリック世界に広がったグレゴリオ暦
西暦1575年、グレゴリウス13世は暦法改革に着手します。暦の改革には、以下の2つの問題がありました。
①進んでしまった10日間の解消
②太陽年とのズレ11分4秒をどう調整するか?
まず①については、1582年の10月から10日間を削除する事にしました。しかし曜日はそのまま据え置きになったので、1582年は、10月4日(木)から、10月15日(金)へ一挙にすっ飛びました。
難題は②の11分4秒のズレをどう解消するかでしたが、これはカラブリアの医師、ルイジ・リッツオの提案を採用しました。これはユリウス暦では、4年に一度と決められていた閏年をグレゴリオ暦では、400年毎に3回減らすというもので、そのため、400年に4回巡ってくる下二桁が00になる年のうち、3回は閏月の挿入をやめる事にしました。
地球の公転は約365.2422日であり.2422の小数点以下を調整する為、閏年を作ったのですが閏年を続けて行くうちにそれにも誤差が生じてきました。そこで、小数点三位以下を調整する為に「閏年の閏年」として4の倍数の年の平年を造る事が決定されたのです。
グレゴリオ暦では、次の規則に従って、400年に97回の閏年が設けられてます。
・西暦年が4で割り切れる年は閏年。
・西暦年が4で割り切れる年の内100で割り切れる年は平年。
・西暦年が100で割り切れる年の内400で割り切れる年は閏年。
これに従い、西暦1700年、1800年、1900年は365日で計算されています。新しいグレゴリオ暦の太陽年との時差は一年間で僅か26秒であり、これが一日ズレるには、2700年も掛かります。以前にも増して、カレンダーは大きく正確性を増したのです。
グレゴリウス13世はすでにカトリック世界に根回しを済ませていて、グレゴリオ暦は一気に浸透していきました。何よりユリウス暦をあまり変えない事が受けたのです。1582年には、イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス、数年後には、オーストリア、ポーランド、ハンガリー、さらに神聖ローマ帝国内のカトリック諸国が採用します。
抵抗する非カトリック世界
カトリック世界はすんなり受け入れたグレゴリオ暦ですが、非カトリックのキリスト教世界は、出来る限りの抵抗を開始しました。特にプロテスタント諸国は激しく反発、グレゴリオ暦は、時を支配しようとする教皇の陰謀だと非難し、「プロテスタントは、教皇と仲良くするくらいなら、太陽と不仲である方が良い」と言い切りグレゴリオ暦を拒否します。プロテスタント諸国は、ユリウス暦を旧暦と呼んで使い続け、グレゴリオ暦と区別しつつ、18世紀までユリウス暦を使い倒したのです。
プロテスタントではありませんが、国王の離婚問題からカトリックと絶縁した英国教会も、グレゴリオ暦を拒否しました。しかし、1752年にいよいよ根負けしてグレゴリオ暦を採用しますが、1752年の元旦が4月1日から、1月1日に移行し、一年が突如11日も削除されて、9月2日の翌日がいきなり9月14日に飛んだので、「11日を返せ」を合言葉に、民衆の抗議運動が頻発しました。
ただ、最もグレゴリオ暦に抵抗したのは、正教会でした。正教会諸国がグレゴリオ暦に屈したのは、20世紀に入ってからであり、ロシア正教に至っては、いまでもユリウス暦を使い続けています。
世界を支配したグレゴリオ暦
欧州で定着したグレゴリオ暦は、西洋の勢力が新大陸、アフリカ、インド、そしてアジアへと帝国主義を拡大させるに従い、その植民地や旧植民地へと普及します。20世紀には、東欧諸国がすべてグレゴリオ暦に改め、トルコでも1926年に改暦。アジアでは、日本が1873年、中国では1912年に改暦したものの浸透せず、1949年に毛沢東がテコ入れしています。
一方で歴史や伝統と折り合いをつける国もあり、イスラエルはユダヤ暦とグレゴリオ暦を併用し、新聞や公文書には二つのカレンダーによる表記がありますし、アラブ諸国も、ペルシャ沿岸の数カ国を除き、イスラム歴とグレゴリオ暦を併用しています。
ともあれ、すでにパソコンには、グレゴリオ暦がプログラミングされていますし、西暦抜きには何のスケジュールも組む事が出来ません。その意味では、現代人は1582年から始まったグレゴリオ暦に確かに支配されているのです。
kawauoの独り言
16世紀頃まで、カレンダーはただ、主要な祭日が書かれただけのものでした。一年は、数えられる程度の種まきや草の刈り取りや収穫や聖人の記念日で埋められ、それ以外の重要な日は主日だけでした。しかし1550年頃から、カレンダーは数値化されたものが大半になり、番号が日付に振られ、聖職者以外にも富裕な商人は時の中に己を位置付けられるようになります。
その傾向は拡大し、21世紀の現在、私達は時の中に過去の自分を見出し、また未来に位置付けられるようになりました。1か月後の自分が、どこで何をしているのか分からない人はまず、いないでしょう。これもまた、カレンダーの恩恵と言えますね。
参考文献:暦の歴史 創元社
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