【麒麟がくる】松平広忠はどんな人?家康の父の空しい生涯

2020年3月15日


 

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松平広忠

 

麒麟(きりん)がくるにも登場した松平竹千代(まつだいらたけちよ)。元々今川義元の人質として父に派遣された竹千代ですが、途中で織田家に奪われました。実の息子を今川家の人質に出そうとした情けない父、それが今回取り上げる松平広忠(まつだいらひろただ)です。でも、無能に見える広忠も、その人生を見ると思わず同情してしまいそうな悲惨なものでした。

 
 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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父清康が家臣に殺され運命は暗転

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

松平広忠は、大永(たいえい)六年(1526年)松平清康(まつだいらきよやす)の嫡男として生まれました。松平清康は三河松平氏でも傑出した勇者で家督(かとく)を継いだ10年の間に分裂した松平一族を掌握し三河統一を果たします。しかし、広忠が9歳の時、悲劇が起こります。父清康が三河統一の勢いに乗り、1万余りの大軍で織田信秀(おだのぶひで)の弟織田信光(おだのぶみつ)の守山城を攻めている途中、家臣の阿部弥七郎(あべやしちろう)に逆恨みで斬られ絶命します。これを守山崩れと言い清康は僅か25歳でした。

 

織田信秀(おだのぶひで)は信長のお父さん

 

強力なカリスマを持った清康の死で結束していた松平氏は空中分解。9歳の広忠は、織田信秀とも通じていた同族の叔父松平信定(まつだらのぶさだ)に岡崎城を奪われ、所領も続々と取られて、遂には命さえ狙われる羽目に陥ります。

 

家臣阿部定吉に匿われ伊勢まで逃げる

馬に乗り落ち延びる明智光秀

 

命の危機にあった広忠を救ったのは阿部定吉(あべさだきち)という家臣でした。実はこの定吉、広忠の父清康を殺した阿部弥七郎の父です。おまけに弥七郎が清康を殺した動機は、父の定吉を清康が(うと)んじて殺したのだと勘違いした為でした。責任を感じた定吉は自害しようとしますが、広忠は定吉を咎めずにそのまま家臣にします。父を殺した男の父をそのまま家臣として使うとは、9歳とは思えない英断です。

 

足軽b-モブ

 

広忠の英断で強い恩義を感じた定吉は、松平信定に命を狙われた広忠を伴い、吉良持広(きらもちひろ)を頼り伊勢まで逃げました。広忠は、ここで元服し持広の一字を貰って広忠と名乗ったそうです。やがて吉良持広が死去して、吉良家が織田家に従うようになると、定吉は駿河の今川義元(いまがわよしもと)を頼ります。

寄親・寄子制を導入する今川義元

 

なんか嫌な予感がしてきましたが、その通りで、この頃から今川義元は三河へ介入していきます。でも、この事で阿部定吉を責めるのは(こく)でしょう。阿部定吉は息子が主君を討った罪の重さを受け止め、養子を取る事なく定吉の病死で家は断絶しました。

 

はじめての戦国時代

 

今川義元の援助で松平家当主に返り咲く

今川義元

 

定吉は駿河に渡り吉良家の口添えもあり、今川義元の兵力を借り受ける事に成功。清康の弟、松平信孝(まつだいらのぶたか)康孝(やすたか)大久保忠俊(おおくぼただとし)の協力を得て天文六年(1537年)岡崎城に返り咲くのです。時に広忠は11歳でした。追い落とされた松平信定は、渋々広忠に従いますが、翌年には病死しました。

 

足軽a-モブ

 

天文十年(1541年)広忠は14歳で尾張知多郡(おわりちたぐん)の豪族、水野忠政(みずのただまさ)の娘、於大(おだい)を娶り、翌年には嫡男竹千代が誕生。徐々に三河当主としての地盤を固めていきます。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

しかし、この婚姻は水野忠政が死去し、後を継いだ水野元政が織田信秀に付いた事で破綻。何の落ち度もない於大は離縁され実家に帰されていまい、竹千代は物心つかないうちに母との別離(べつり)を経験します。こうして、城主に返り咲くのに今川義元の力を借りた事で、広忠は、今川氏の盾として織田信秀と戦い続ける運命を背負う事になります。

 

織田信秀との激闘

軍議(日本史)モブa

 

天文十四年(1545年)、松平広忠は安城畷(あんじょうなわて)において織田軍と戦い勝利を得ます。その後、天文十六年横暴な振る舞いが増えた松平信孝と渡理川原(わたりかわら)で戦い本多忠高(ほんだただたか)の功績で勝利しました。同年、織田信秀が大軍を発して三河に攻めこむと広忠は義元に援軍を申し入れます。

 

この時、義元は広忠に嫡男の竹千代を人質に差し出すように命じ、広忠は従いますが竹千代は途中で織田家に奪われます。天文十七年(1548年)小豆坂において織田信秀と対陣、この時には今川家から太原雪斎(たいげんせっさい)と二万の援軍を受けて大勝します。翌年には再び織田信秀と戦い勝利を得て、織田信広(おだのぶひろ)を人質として息子の竹千代と交換、竹千代はそのまま駿河に送られました。その間に叛いていた松平信孝を敗死させ、広忠はなんとか三河を守り抜いています。

 

暗殺から病死まで様々な死因

炎上する城b(モブ)

 

ところが、これからという時に松平広忠は、天文十八年(1549年)3月6日に24歳で死去します。その死因については、病死、家臣岩松弥八(いわまつやはち)による暗殺、(たかがり)狩りの途中に一揆による殺害という説もあり一定していません。

 

一向一揆(農民)

 

一説には一揆による殺害は織田信長の差し金によるものという見方もあるようです。麒麟がくるでは、この信長による殺害という説をアレンジしつつ取っています。もしこれが本当なら、家康は長男、正室、父親まで信長に殺された事になりますね。

資金が豊富な織田信長

 

こうしてみると、今川義元の操り人形として評判がよくない広忠も、今川家の後ろ盾を得ながらとはいえ、なかなか頑張っている様子が見えます。24歳で死ななければ、もう少し老獪(ろうかい)に戦国乱世を泳ぎ切ったのではないでしょうか?

 

徳川家康との関係

若い頃の徳川家康(松平元康)

 

後に天下人になった徳川家康は、父である松平広忠について何も語っていないようです。逆に、実家が織田家についた事で、今川家についていた松平広忠から離縁された生母の於大の方については、彼女が尾張阿久比(おわりあぐい)城主久松俊勝(ひさまつとしかつ)と再婚してからも連絡を取り合っています。

 

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

桶狭間の戦いの後で自立した家康は、尾張阿久比城主久松俊勝をそのまま引き抜いて家来にし、生母の於大と再会する事に成功しています。こうしてみると家康は自分に人質生活を強いて、生母との関係を断ち切った広忠には、あまり良い印象がなかったかも知れませんね。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

松平広忠については、その生涯について不明な点や文献の異同が多く、まだ、これという人物像は定まっていないようです。麒麟がくるでも、信長の刺客に殺害され、すぐに出なくなってしまいますが、苦労しどおしの人生に思いをはせて見てみると、情けない家康の父という印象も少しは変わるかも知れません。

 

参考文献:NHK大河ドラマ完全ガイドブック 麒麟がくる

 

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織田信長スペシャル

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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