三国志には数多くの英雄たちが出てきますが、その英雄たちの中でもひと際輝くのが曹操。三国志演義での影響が強く、悪役としてのイメージもある曹操ですが、悪役として描かれている曹操もそれは魅力的なものです。
そんな曹操は、歴史的に見ても数多くの功績を残しています。今回はそんな曹操の功績の一部、そしてその功績の中でもひと際輝く「孫子と曹操」についてお話していきたいと思います。
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曹操の功績をざっと挙げていくと
まずはざっくりと曹操の功績を見ていきましょう。曹操と言えば政治家として数多くの功績を残しています。曹操の時代は三国時代、後漢末期ということもあり政治は乱れに乱れていました。
曹操はこの乱れた政治を立て直すために、人材の発掘、優秀な人材の育成に力を入れたのです。このため曹操の下、曹魏には優秀な人材が集まることとなり、また幅広く部下たちの意見を取り入れていったことで政治の基盤を作り上げました。
末期の蜀、呉と比べて魏の勢力の強さ、兵の優秀さから見ても曹操の人材育成は素晴らしいことが分かりますね。そして政治家としてだけでなく、芸術家としても曹操は才能がありました。
曹操と息子たちを称した「三曹」は、名詩文家の代名詞となったほどです。曹操の書く詩は簒奪者、悪役としての人物とは考えられないほど悲哀に満ちたものもあり、彼の才能の一端を表しています。
曹操の最も重要な功績
さてそんな曹操の最も重要な功績として、彼の最大の功績として度々挙げられるのが「孫子の兵法」再編集です。曹操が孫子の兵法を注釈を入れつつ、分かりやすく一つにまとめたこの功績が最も後世に評価されている、ということですね。このため、後世の人々は孫子を良く嗜めるようになりました。
再編集、というとその凄さが分かりにくいかもしれませんが、孫子の兵法とは元々100篇くらいあり、とても長い文章でした。そして現代の孫子の兵法は分かりやすく、13篇にまとめられている、曹操の注釈がほぼ現代の形になっている。これだけで曹操の凄さが良く分かることと思います。
孫子の兵法に付いて・・・
ここで少し、孫子の兵法について紹介をしておきましょう。孫子の兵法とはただ戦争に勝つ方法、軍略が記されている訳ではありません。
曹操だけでなくナポレオン、武田信玄などが用いたので勘違いされることが多いですが、孫子はそもそも戦争はやってはいけないこととして記しており、戦争にならないための方法を記しているとも言える書物です。そしてその多くは、実は日常生活にも使えることが多く記されているのです。
例えば「百戦百勝は善の善なるものに非ず」という言葉があります。百戦百勝は決して良いことではありません。百回戦ったということは勝ったとしてもそれに至る犠牲があり、それは後のマイナスに繋がります。敗北無しと驕り高ぶってしまうことから、周囲の反感や大きなミスにも繋がってしまいますね。
孫子はまず交渉をして、戦うことは最終手段にするようにと言っています。これは日常において人間関係にも言えること。争うのではなく交渉で何とかすることこそが重要になのです。
因みに孫子は「もし争うなら相手より強くなって資源をいっぱい持って一緒に戦ってくれる友達をたくさん作ること(意訳)」とも言っています。これは一見すると当然のことに見えますが、その当然のことが如何に難しいか、それも孫子から学ぶことができるでしょう。
曹操の能力
さて少し孫子に傾いてしまいましたが、曹操の能力について話しましょう。曹操は孫子をまとめるだけでなく、格調高い、綺麗な漢文で簡潔にまとめています。
「百戦百勝は善の善なるものに非ず」
このように、何ともカッコ良く、そして短い!簡潔で分かりやすいことは美点です。簡単にまとめるにはその文章を理解していることが不可欠ですから、曹操が如何に孫子を読み込み、理解していたかも分かりますね。曹操が孫子を分かりやすくまとめた、これだけでも曹操という人物がとても優秀な人物か分かるというものなのです。
三国志ライター センのひとりごと
曹操は元はと言えば武官ですが、政治家、芸術家としても優れている人物です。陳寿から「非凡の人」と言われるほど、曹操は多方面に才覚を発揮しました。
それは曹操の功績から読み取ることができます。その才覚は少しやり過ぎに感じるほどなので……そういった面からも曹操は魅力的であると共に、嫉妬され非難される原因となったのかもしれませんね。
曹操の功績のまとめ
- 孫武の兵法を曹操自身で改良し、軍事指導力を高めたことで、他の群雄を滅ぼした
- 国家を統治するために有能な文官達を起用、政策を策定し法を整備
- 芸術や文化の発展にまで寄与した稀代の英雄
参考:魏武注孫子 魏書武帝紀
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