曹操が魏王になった驚くべき理由!本当は野心関係なかった?

2019年10月29日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

魏の曹操孟徳

 

曹操(そうそう)は西暦216年(ぎおう)になっています。

 

曹操

 

それまで漢の忠臣のポーズを取っていた曹操の魏王朝への土台固めに見える転身は

綺麗(きれい)ごと言っても、やっぱり天下が欲しかったんだろ?」という人間の浅ましさを際立たされる行動にも思えます。

でも、曹操が魏王になったのは野心以外のやむを得ない事情によるものだったとしたらどうしますか?

 

関連記事:荀攸は魏王就任に賛成していた?荀攸の思惑と魏王就任賛成の理由

関連記事:劉備も孫権も黄巾賊と変わらない!三国志の蜀の皇帝劉備と呉の皇帝孫権は魏王朝から見たら黄巾賊と同じだった!?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



後漢の中央集権に苦しめられる曹操

頭痛に悩む曹操

 

では、ここで皆さんに質問です。

後漢の時代において、州牧(しゅうぼく)刺史(しし)太守(たいしゅ)県令(けんれい)ではどちらが偉いですか?

ここで、ええっと、と考えてしまったあなた、残念間違いです。

答えは、全部同じ、皇帝の下に全部対等です。

献帝

 

そもそも、中央集権制は皇帝の下に全ての権力を集めるものですから、皇帝以外に命令系統に上下が存在しては困るのです。

例えば、州牧から郡太守に命令が発せられる時には最初に皇帝に上奏して許可を得た上で県令に命令書が回ってきます。

そうでないなら、ある程度の権限を皇帝から予め委譲します。

 

これは中央集権制の特徴であって、現代日本でも県知事と市長と総理大臣の間に身分の上下というのはありません対等です。

ただ、後漢時代と違うのは、これら行政の首長を任命しているのは皇帝ではなく国民であるという事です。

しかし、曹操はこの中央集権制に苦しめられる事になります。

 

軍権を持つ太守や州牧という存在

于禁と兵士

 

後漢の末期、董卓によって統治機構をバラバラにされてしまった後漢ですが、それでも中央集権は建前だけでも存在していました。

群雄たちは、自分が実力支配している土地の長になる時には、事後承認でも何でも一応上表して献帝に送っています。

その後、献帝から上表を裁可するアクションが常にあるわけではありませんが漢の天下を(ないがし)ろにしてはいませんよというポーズを取ったのです。

援軍を率いる公孫続

 

さて、そんな群雄割拠の時代、群雄は州牧や州刺史になる事が多いのですがこれは、このような役職が軍隊を保有する事が出来るからです。

ただし、例え州牧になっても領域下にある郡太守や県令、県長というポストは州牧と立場が対等であって独裁的に動かす権限がありませんでした。

 

特に郡太守は、それぞれ郡を統治する兵力を保有していました。

反董卓連合軍に名前を連ねた人々を見てみても、

 

陳留郡太守張超(ちょうちょう)、河内郡太守王匡(おうきょう)、東郡太守橋瑁(きょうぼう)渤海(ぼっかい)郡太守袁紹(えんしょう)、後将軍袁術、冀州牧韓馥(かんふく)豫州(よしゅう)刺史孔伷(こうちゅう)

兗州刺史劉岱(りゅうたい)等が名を連ねています。

 

※袁術は後将軍ですが、南陽郡太守も兼ねています。

 

彼らは郡太守・州刺史として一定の兵力を動員できる立場にあり、だからこそ反董卓で挙兵する事が出来たのです。

曹操も、この郡太守だらけの反董卓連合軍に参加しましたが、彼の肩書は行奮武将軍だったので自前の兵力がなく資金援助や財産処分で

お金を造り、ようやく五千の募兵を獲得し参加を勝ち取っています。

曹操と夏侯惇

 

曹操孟徳

 

兗州の反乱、でも呂布についた連中を処罰できない曹操

苛ついている曹操

 

西暦192年、曹操はようやく兗州牧に推挙されました。

ただし、これは朝廷が裁可したものではなく朝廷からは州刺史として金尚(きんしょう)が派遣されましたが、曹操は追い返しています。

しかし、曹操は地元名士を蔑ろにした対応を取った事で兗州の人望を失い西暦194年に二度目の徐州侵攻を行っている最中に張邈(ちょうばく)陳宮(ちんきゅう)(そむ)かれます。

彼らは新しい州牧として呂布を引き入れ、兗州は僅か3県を除き悉くが呂布についてしまうのです。

呂布を水攻めする曹操

 

曹操は急いで兗州に戻り、二年近い激闘の末に呂布を追い払い兗州の支配を奪還しますが、反乱の当事者である張邈や張超を攻め滅ぼした以外は

呂布についた太守や県令、県長を処分する事はありませんでした。

 

理由は後漢の中央集権制の為に、曹操に太守や県令の行動を法的に処罰する権限が存在しない為でした。

曹操が兗州牧であろうと、郡太守も県令も県長も立場は対等なのでそれに従う義務はないわけです。

ハラワタが煮えくりかえる曹操ですが中央集権の壁の前に泣き寝入りするしかありません。

 

領土が拡大する程、権限の小ささに悩む曹操

洛陽城

 

曹操は、徐州大虐殺で名士層に嫌われた悪名を払拭しようと献帝擁立に動きます。

また、屯田制を辺境ではなく荒廃した領地内で行い生産性を向上させます。

曹操の支配地域は、幽州、青州、()州、(へい)州、司隷(しれい)(えん)州、()州、徐州、(よう)州、涼州の十州に拡大していきますが、

同時に曹操は自己の権限の小ささに悩みます。

 

それは、曹操が直接動かせる兵力が冀州だけであるという事です。

曹操のポストが冀州牧なので冀州の兵力は動かせますが、後漢の制度では州牧を兼任する方法はありませんでした。

もちろん、献帝は傀儡なので曹操に忠誠を誓う人物を州牧にするのは可能ですが建前上、これらの州牧と曹操の立場は後漢の臣として

同じになってしまいます。

 

例えば袁紹は青州、幽州、并州に息子や血縁者を州牧として送っていますがこれは血縁者が一番裏切りにくいだろうという理由からです。

荀彧

 

曹操は、十四州ある中国の州区分を古来からの九州にしようとするなどして冀州牧の権限を強めようとしますが、荀彧(じゅんいく)に反対されたりして

骨折り損になります。

 

魏王曹操が手にした承制

感謝している曹操

 

西暦215年9月、翌年の魏王即位に先んじて献帝より曹操に承制(しょうせい)を許す詔が出ます。

では、承制は何かというと献帝が握っていた官爵の裁可権を曹操に与える事です。

献帝は、曹操が張魯討伐で遠路にあり、人事について遠距離を越えて裁可を求める面倒を避けて、信賞必罰(しんしょうひつばつ)を速やかに行えるように

承制を認めるとしたのです。

曹操

 

これにより曹操は献帝の裁可を得ずに自己権限で、部下を州牧や太守に任命できる権限を手にできる事になります。

さらに翌年の5月には、曹操は遂に魏王に封じられました。

後漢では、劉氏以外に王は封じられていないので曹操の魏王封国は少なからぬ衝撃を中華全土に与えた事でしょう。

銅雀台の建造記念パーティーを行う曹操

 

承制と魏王になった事により、名実共に曹操は州牧や刺史、太守のような後漢の臣たちに対して法律的にも上位に立つ事になります。

しかし曹操の魏王封国は、もう易姓革命の一歩手前であるという後漢の滅亡を暗示するアクションとして受け取られる事になりました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

kawausoは、曹操は自分の代では天下を取る気はなかったと予想します。

儒教に批判的であったとはいえ、曹操自身は後漢の制度の中で権力を維持したからです。

しかし権力を天子に集中する名目で生み出された中央集権制は、間接的に献帝の威光を利用して権力を維持したい曹操にとって

(いちじる)しく不利でした。

 

小さな勢力である間はそれで良くても、ライバル劉備が蜀を得て、孫権が江南で地盤を固めるに至っては、

もう誤魔化しは通じないと観念し魏王になって直接、人事を握る方向に舵を切ったのです。

 

そして、後漢の枠組みの中にもう一つの中央集権国家である魏が出来た以上、

二重の中央集権制を解消する為に後漢が消えるのは必然だったのです。

 

参考文献:正史三国志武帝紀他

 

関連記事:魏王朝から禅譲後に晋の領内で進撃の○○が出現した!?

関連記事:権力に執着した曹操が魏王になるまでに荀彧と荀攸との間に亀裂が生じる

 

伝説の企画 朝まで三国志 最強のワルは誰だ

朝まで三国志1

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-三国志の雑学
-, , ,