日本史の授業で必ず習う応仁の乱。11年も続いた戦乱は、室町幕府の権威を弱体化させ、以後、国内はひっきりなしの動乱状態に包まれます。応仁の乱が長期化したのは、①井楼という攻撃的防御兵器の出現。町を濠で囲んでしまう塹壕戦が挙げられますが、3つ目の要因として足軽の大量動員という事実がありました。
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足軽を産んだのは飢饉と足利将軍の恣意的な政治
応仁の乱を長引かせた足軽は、何も地獄から湧いてきたのではありません。その出身母体は、飢饉の頻発により周辺の農村から京都に流れ込んできた農民でした。
当時の京都は、人口15万から18万人で博多のような大都市でも3万5千人であった事を考えると突出した大都市であった為に、喰い詰めた農民が大量に流れ込んできたのです。
もう一つ、京都には「万人恐怖」と呼ばれた六代将軍足利義教以後、歴代将軍の恣意的裁定により没落して禄を失った守護大名の家来が流民化して溢れていました。これらの人々が戦争が長期化し、兵力を必要とした東西の大名に雇用されたのです。愚連隊の足軽も、長い目で見れば天災や恣意的な政治の犠牲者でした。
足軽は後方攪乱の目的で招集された
足軽を合戦に動員したのは、東軍が最初だったようです。応仁二年(1468年)3月16日、東軍は足軽を動員し、下京にあった西軍の食糧集積地を焼き払わせたのです。ここから見ても分る通り、足軽は戦力ではなく後方攪乱というゲリラ的な働きを期待されていました。当時の足軽は甲冑を身につけてない軽装の歩兵で、盗賊の類と、姿形で異なる部分はなかったのです。
応仁の乱自体が、井楼という物見櫓を建てて敵陣に矢を射こんだり、塹壕を掘って穴熊になる持久戦になったので、勝敗を決めるのは、敵の食糧を止めて飢え死にさせる事しかありませんでした。
京都は、15万の人口を自力で養う事が出来ず、食料は周辺からの輸送に頼っており、七口と言われる七つの補給ルートがありました。この部分を制してしまえば敵軍は降伏するより仕方がありませんから、勢い戦争は京都の中央から、郊外へと飛び火していくようになります。
史料に登場してから六日で消えた足軽スター骨皮道賢
東軍の行った下京焼き討ち作戦を指揮したのが、足軽大将の骨皮道賢です。道賢は、応仁の乱以前には、室町幕府の侍所に雇われていた目付でした。この目付は、大した地位ではなく、江戸時代の岡っ引きと類似の存在で、要は裏社会の住人が足を洗い今は侍所の手先として、元の仲間を摘発しているという図式です。
応仁の乱当時、京都の治安を受け持っていた侍所の長官は、守護大名京極持清という人物でしたが、あくまでもこの人は飾りで実際には、持清の重臣の多賀高忠が所司代の実務を受けもっていました。
しかし、持清は治安維持の為の兵力を与えられず、窮した末に京都の牢人や悪党を雇い入れたのだそうです。骨皮道賢は、その中で雇われた悪党の一人で、伏見稲荷社を拠点に300人の足軽を従え西軍の糧道を断ちました。
一躍、有名になった骨皮道賢は東軍の総大将、細川勝元の推挙より、六位左衛門尉の官位を与えられたとも言われます。昨日まで無位無官で悪党と付き合いがあった下層民の道賢が、一躍官人になった事に京の人々は仰天します。道賢は、その後に続く下克上の走りの一人だったのです。
ところが、道賢の大活躍もここまででした。糧道を断たれる事態を憂慮した西軍は3月21日に大軍で稲荷山を包囲、そこに道賢も運悪く居合わせてしまい、山に火が放たれると女装して戸輿に乗って逃げる途中、畠山義就の家臣に見破られ斬られました。
道賢の活躍した期間は僅かに六日に過ぎず、まさに彗星のように儚い名声です。
西軍の足軽大将御厨子
骨皮道賢は死んだものの、東軍はイレギュラーな足軽の機動力に着目し、その後も使い続けます。応仁二年6月8日の夜、東軍の足軽は山名宗全邸の高楼を焼き払い、細川勝元より恩賞を受けているようです。そうなると、西軍だって足軽を雇い入れます。
西軍の足軽大将としては、御厨子某という人物が有名で、元、東福寺の門前の住人だったものが、武勇を好んで家業を継がず、畠山義就に仕えたようです。彼は足軽を集めてゲリラ戦を展開し、散々に東軍を苦しめたと言われます。
ですが、足軽は報酬が略奪であったのでコスパは最高ですが、害の方が甚大でした。合戦に関係なく、火付け略奪を繰り返す足軽のお陰で京都は日に日に荒れ果てていき、戦いはいつ終わるとも知れない泥沼に突入するのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
応仁の乱が長期化するほどに、戦場になった土地は荒れ果てそこから焼け出された人々が再び足軽の供給源になって、京都を破壊していきました。戦場の徒花になった足軽ですが、コスパが良い事から東軍でも西軍でも雇用する事を止める決断が出来ず、ずるずると破壊が続くという悪循環になっていくのです。
参考文献:応仁の乱 中公新書
参考文献:絵解き雑兵足軽たちの戦い 講談社文庫
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