織田信勝は通称を勘十郎と言い、織田信長の弟です。
時代劇やNHK大河ドラマでは乱暴な兄信長に対し、非常に折り目正しい貴公子として描かれ特に母の土田御前に愛される存在です。父、織田信秀の死後、兄弟は尾張の支配者の地位を巡り争う事になりますが、その結果はどんなものだったのでしょう。
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織田信秀が病床に伏してから存在感が増す信勝
織田信勝は、天文五年(1536年)頃、織田信秀の三男か四男として誕生しました。父の信秀は守護代清須織田家の奉行の地位ながら津島や熱田の港を抑え、今川氏や斎藤氏と戦うなどで尾張随一の勢力を誇りましたが、晩年は美濃や三河侵攻に度々失敗し支配が不安定化していました。そこで信秀は那古野城主で嫡男の信長を政務に関与させ、末盛城の信秀と那古野の信長の二頭体制になります。天文二十年頃になると信秀は病床に伏しますが、この頃に信勝が表舞台に登場してきます。
諸説ありますが、今川に譲歩的な信秀に対し信長は強硬派なので、牽制の為に信勝を引き上げたようです。信秀は信長と信勝を監督下において、尾張の共同統治を目指していたのでしょう。
信秀の死後、尾張は兄弟二人の分割統治となる
天文ニ十一年頃、織田信秀は伝染病で死去します。信長公記によると、葬儀の時、信長は長柄の太刀と脇差を藁縄で腰に巻き、髪は茶筅髷に巻き立てて袴も穿かず信秀の位牌に抹香を投げつけて帰って行きました。逆に信勝は、折り目正しい肩衣と袴を着て礼式に則った作法だったと言います。
ドラマや時代劇は、この時の信長と信勝の様子から野蛮な信長と礼儀正しい信勝を産み出したのでしょう。
どうして信長が位牌に抹香を投げたのか?諸説ありますが、その中に信勝の厚遇についての不満があったと考えられます。
信秀は死に臨み、信勝に居城の末盛城を与え、佐久間大学、佐久間次右衛門、柴田勝家が補佐としてつけられていたほか、所領の西を信長、東を信勝が分割統治する合意があったとする説もあります。
信長は家督を継承したとはいえ、叔父の守山城主、織田信光、織田信勝とライバルを抱え、それが来るべき清須織田家との尾張統一戦争に不利に働くと直感したのでしょう。もっとも、信秀が死んで一年余りは、信勝は信長と共同歩調を取り、守護の斯波義統を殺した清須の織田彦五郎討伐にも重臣の柴田勝家が参加しています。
商業地熱田の権益を巡り兄弟は対立
天文二十二年、10月、信勝は信長の関与なしに独自に判物発給を開始します。判物は行政文書で、熱田の豪商東加藤家の権益を保障する内容のようです。信長も同じように西加藤家に判物を出し、二人が熱田の経済支配を巡り争っていた様子が分かります。
天文二十三年4月には、守護代の清須織田家の織田彦五郎が、信長と叔父の織田信光の共同作戦で滅亡、さらに織田信光も同年11月に暗殺され、弾正忠家の家督争いから脱落します。
この頃、信勝は達成と改名しています。達字は清須織田家の通字であり、滅んだ守護代清須織田家を継ぐという意味があるようです。同時に信勝は弾正忠という官位を自称します。
「織田家の当主は兄ではなく、このわしだ」という明確な独立宣言でした。
一方の信長は、織田彦五郎に殺害された斯波義統の子の斯波義銀を庇護して、大義名分としていました。
叔父や兄弟も続々と脱落
かつて織田信光が居住していた守山城は、信光が清須城に移った後に、同じく信長の叔父の織田信次が入城していました。しかしある時、信次が川狩りをしている時に、単騎で下馬もしないで信次の前を通り抜ける若武者がいたので、信次の部下の洲賀才蔵が無礼であると警告の矢を放つと、それが運悪く命中し死んでしまいます。死んだのは信長や信勝の弟の織田秀孝でした。
信長の報復を恐れた信次は、顔面蒼白になり城から逃げ出してしまいます。これを聞いた信勝は激怒し、守山城下を焼き払いますが、信長は秀孝にも過失があるとして、信次を庇い、兵を派遣して守山城を守ります。空位になった守山城主には、織田信時、或いは秀俊が就任しますが、すぐに配下の角田新五に殺害されます。この角田は稲生の戦いで信勝についており、また秀俊は信長派なので、これには信勝による暗殺説もあるようです。ただ、奇妙な事に、これで信秀の兄弟は信長と信勝だけになりました。二人の直接対決は回避不可になります。
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