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この記事の目次
稲生の戦いで信勝は敗れる
弘治二年4月、信長の岳父である斎藤道三が長良川の戦いで息子の義龍に敗れて戦死します。婚姻により、美濃を味方につけていた信長ですが、一転して義龍は信長と敵対し、尾張下四郡を支配する守護代岩倉織田家を支援するなど信長に牽制を掛けてきます。
この状態を受けて織田信勝は、林秀貞、林美作守、柴田勝家と反旗を翻し、信長の直轄領篠木三郷を押領しようとし、信長は対抗して名塚砦を築き、佐久間盛重を置いて牽制します。これに対し、柴田勝家が打って出て名塚砦を攻撃、信長が援軍に出て激突します。稲生の戦いです。
「信長公記」によれば、信長方の手勢が僅か700人たらずに対し、信行方は柴田勝家が1000人、林秀貞が700人の合計1700人でした。正午、信長軍の約半数が柴田軍に攻めかかります。しかし兵力差に加えて戦上手で知られる柴田勝家の活躍があり、信長方は佐々孫介ら主だった家臣を次々に討たれ失速、大苦戦を強いられます。
逆襲に転じた柴田勝家が信長の本陣に迫った時には、信長の前には、織田勝左衛門・織田信房・森可成等と、槍持ちの中間40人ばかりという窮地に陥りますが、負けじと織田信房・森可成の両名が前線に立って奮戦、信長サイドから信勝に味方した清須衆の土田の大原という武将を返り討ちにするなど奮戦します。
そのタイミングで信長が敵兵に対し「何を身内で戦しとるんじゃいゴルァ!」と大声で怒鳴りつけると、柴田軍の兵は崩れて逃げていきました。勢いを取り戻した信長軍は次いで林軍に攻めかかり、総大将の信長も前線で奮闘し、林美作守が黒田半平と切り結んで息が切れた所を信長が助太刀して打ちかかり、槍で突き伏せて討ち取りました。
この林美作守とは、林通具と言い信勝の重臣で、信長の悪口を信勝に散々に吹き込んで不仲にした張本人との事で信長は恨んでおり、自らトドメを刺したそうです。
さらに信長軍は、鎌田助丞・富野左京進・山口又次郎・橋本十蔵・角田新五・大脇虎蔵・神戸平四郎ら、信行方の主だった武将を含む450人余りを討ち取って大勝利します。
この戦い、信長が前線に立つのに対し、信勝は末盛城から指揮していましたので士気面での差が大きく信勝は敗れたと言われています。敗走する信勝軍は末盛城と那古野城に籠城し、信長は城下を焼き払い包囲しますが、ここで、信長と信勝の生母である土田御前が、和睦を斡旋。信長は清州城で信勝と会談してこれを許しました。
織田信勝の野望、、潰える
稲生の敗北で信勝は大きく権威を損ないました。弾正忠の官位も辞めて武蔵守信成となのります。しかし、信勝は野心を捨てたわけではなく、相変わらず判物を発給し、斎藤義龍とも文書を往来しています。
永禄元年には、信勝は竜泉寺城の築城を開始、今川に備えるとも、信長に備えるともつかない城の築城は信長の不安を煽りました。その頃、信勝の重臣の柴田勝家が、信長に信勝が岩倉織田氏の織田信安に通じて謀反を企てていると密告しました。
この頃、信勝は若衆の津々木蔵人を重用して勝家を嫌っており、勝家が愛想を尽かしたようです。信長は信勝を始末する事を決意し仮病を使って床に伏せっていると柴田勝家と母の土田御前が信勝に見舞いを勧め、信勝がホイホイと清須城に来ました。信長はチャンスを逃さず、河尻と青貝に命じ清須城北櫓天守次で信勝を殺害しました。かくして、信勝の野望は潰えたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
信勝は無能ではないようですが、兄の信長と張り合うのは荷が重いようですね。また、率先垂範な兄と違い、信勝は前線に出ず兵士の士気を繋ぎ止めるのも上手ではなくそれで肝心な時に勝利を逃した印象です。一方、信勝は見た目と違い、鷹狩りの名手で鷹に代わり百舌鳥を使って獲物を獲ったとも言われます。なかなか、個性的な面もあったのですね。
参考文献:現代語訳 信長公記
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