ラスプーチンとはどんな人?デマが産み出した偽りのロシアの怪僧

2020年7月3日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

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ラスプーチン

 

怪僧ラスプーチンと言えば、末期のロマノフ王朝に出現し幾つもの奇跡で皇帝一家に取り入り、政治的に強い影響力を持ち、最後には政敵に憎まれ何発も銃弾を撃ち込まれた上に撲殺され厳冬の川に死体を捨てられた人物です。

 

幸か不幸か、ラスプーチンには60点の写真が残り、長身でひげもじゃの形相はいかにも怪僧(かいそう)に相応しい禍々(まがまが)しさでした。20年くらい前のアーケードゲーム、『ワールドヒーローズ』にも登場しますので、何となく見覚えのある方もいるでしょう。

 

しかし、先入観を捨てて彼の生涯を追ってみると怪僧とは名ばかり、少し変わった数奇な人物像が浮かび上がってくるのです。ホントにこの人は、史上類の無い極悪人なんでしょうか?

 

1869年シベリアのポクロフスコエ村に生まれる

 

ラスプーチンは1869年、1月9日、シベリアの寒村ポクロフスコエ村の農夫、エフィム・ヤコブレヴィチ・ラスプーチンとその妻、アンナ・パルシュコヴァの5番目の子供として生まれ、グリゴーリィ・イフィーマヴィチュ・ラスプーチンと名付けられます。

 

しかし、家は貧しくラスプーチンは学校に通えず、素行不良で粗暴(そぼう)な若者へと育ちます。ですが、根っからの悪人ではないらしく、犯した罪を告白し悔い改めれば神に近づけるとしたロシア正教会古儀式派のスコブツィ教派の教義に傾倒。宗教指導者としての頭角を現わします。

 

結婚するも生神女マリヤの啓示を受け修道僧へ

 

1887年、18歳のラスプーチンはプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚しますが、1892年野良仕事をしている時、生神女(せいしんじょ)マリヤ(聖母マリア)の啓示(けいじ)を受けたとして、勝手に村を出てゆきました。

 

出奔後のラスプーチンは、ヴェルコチュヤの修道院で数か月を過ごしましたが、その際に出会ったミハイル・ポリカロプスに強い影響を受け禁酒して肉食を控えるようになり、村に戻ると熱心な修行僧になっていたそうです。この辺で怪僧ラスプーチンの下地は完成したようです。

 

脱税の歴史

 

巡礼の旅の途中に運命のサンクトペテルブルクへ

セミナリオ(教会)

 

1903年、ラスプーチンは再び巡礼の旅に出ます。正規の教育を受けていないラスプーチンは独自解釈で聖書を理解していましたが、熱心な信仰態度が周囲の好感を集め主教や上流階級の人々の注目を集めていきます。やがて、ラスプーチンはクロンシュタットのイオアンと共に教会建設の寄付金を集める為にサンクトペテルブルクを訪れました。

 

当時の帝都サンクトペテルブルクは、多くの貧民がいて、ラスプーチンは病気治療で奇跡を起こし、神の人と呼ばれるようになります。そして、ラスプーチンは当時神秘主義に傾倒していたミリツァ大公妃とアナスタシア大公妃から寵愛を受けるようになりました。

西郷従道 幕末

 

かくして、1905年11月1日、この大公妃姉妹の紹介でラスプーチンはロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見します。この頃、ロシア貴族の間では神秘主義が大流行しており、アレクサンドラ皇后もまた神秘主義に傾倒していたようでラスプーチンは気に入られます。

 

 皇太子の血友病を治療し皇帝夫妻から絶大な信頼を得る

 

1906年10月、ラスプーチンはニコライ2世の要請で爆弾テロで負傷したピョートル・ストルイピンの娘の治癒を行います。そして、1907年4月には、エカテリーナ宮殿に呼び出され、血友病患者(けつゆうびょうかんじゃ)であったアレクセイ皇太子の治癒(ちゆ)を任されました。

 

血友病とは、出血が起きると血が止まらず出血多量死する事もある難病です。アレクセイの侍医たちはラスプーチンの治癒に懐疑的でしたが、翌日にはアレクセイの発作が治まり症状が改善したそうです。これを契機にラスプーチンへの皇帝夫妻の信頼は絶大になりました。

 

なにしろ、ニコライ2世夫妻にとって男子はアレクセイ1人であり、しかも未来の皇帝陛下です。医師にも手が打てなかった皇太子の血友病を改善させたラスプーチンですが、侍医はラスプーチンをインチキだと断定し催眠術で騙したのだと糾弾。そのためラスプーチンは皇太子に会えなくなります。

 

1912年10月、皇帝一家はビャウォヴィエジャの森に狩猟に来た所、そこでアレクセイの病気が悪化します。一家はスピアに移り治療を行いアレクサンドラはペテルブルクにいるラスプーチンに助言を求めます。

 

ラスプーチンは手紙で、小さな子が死ぬ事はありません。しかし、私が治療するのを侍医たちが許さないでしょうと予言めいた事を書いています。予言通りアレクセイは死にませんでしたが、病状の回復が見られるのは翌年になってからでした。

ロシアの怪僧の実態

 

やがて、ラスプーチンはアレクサンドラをはじめ宮中の貴婦人や宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めていきます。

その理由はシベリアで鍛えられたラスプーチンの野性的な肉体と巨根と超人的な精力という噂が当時からあり、秘密警察もラスプーチンの奔放な下半身事情に呆れたと報告書に記載したそうです。

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

しかし、そんな風聞の一方でラスプーチンはサンクトペテルブルクにアパートを5部屋借りて、田舎から家族を呼び寄せて暮らしていましたし、非常に金銭に淡白で物乞いに大金を与え、レストランでも気前よく勘定を支払い「無欲な人格者」と人気がありました。

 

ただ、文盲に近いラスプーチンが皇后や貴族の子女の人気を集める事で、他の貴族は反発し嫉妬心を剥きだすようになります。その頃から、ラスプーチンは宗教裁判に引っ張り出され、新聞は面白おかしくスキャンダルを書きたてました。

 

それに影響されて、元々はラスプーチンに好意的だった人々も離れていき、政治家や宗教家もラスプチーンを「不道徳者」「異端者」「エロトマニア」などと非難して、サンクトペテルブルクから追放しようとします。

 

ラスプーチンの怪僧イメージの半分以上は、このような人間の嫉妬と面白半分の新聞報道のせいではないかとkawausoは思います。

 

ですが、スキャンダルの嵐の中でも、ニコライ2世とアレクサンドラはラスプーチンの味方であり彼を庇い続けました。ラスプーチンと身近に接した皇帝夫妻だから、彼の本当の姿が分かる部分があったように思います。

 

ラスプーチン暗殺未遂

イギリスの国旗を背景とした艦隊

 

1914年6月29日、スキャンダルを避けてポクロフスコエ村に帰郷していたラスプーチンは自宅で刺客に短剣で腹部を刺されます。しかし、頑強なラスプーチンは部屋を飛び出して、地面に落ちていた棒で反撃したので難を逃れました。

 

ラスプーチンは医者が来るまで自宅に留まり医師の治療を受けますが、ここでは十分な治療が出来ないので、船でチュメニの病院へ移送。知らせを聞いたニコライ2世は、直ちに医師団を派遣して手術を受けさせます。7週間後にラスプーチンは退院し、その間、暗殺者の裁判などもあり、この頃一時的にラスプーチンを批判する勢力は影を潜めました。

 

政治に関与するラスプーチン

 

ラスプーチンが政治に影響力を持つようになるのは、1914年5月頃で第二次バルカン戦争において、ニコライ2世がバルカン諸国の分裂回避に動いたのに反対した時のようです。

このために、ラスプーチンは汎スラブ主義を標榜するニコライ大公、ピョートル大公、その妻であり自身の支持者でもあったミリツァ、アナスタシア大公妃姉妹と敵対することになります。

 

一方でラスプーチンは、第一次世界大戦前にはドイツ帝国との戦争に猛反対、戦争が始まるとロマノフ王朝とロシアの君主制が崩壊すると予言します。しかし、汎スラブ主義ロシアと汎ゲルマン主義のドイツの対立は回避不可能で、ロシアは大戦に参戦、戦争は短期で決着するとの楽観論を覆し、長期化、そもそも戦争どころではないロシア帝国は東部戦線で150万人以上のロシア兵を戦死させ、国内では物資不足が深刻化していきます。

 

そしてロシアでは、敵国であるドイツ系住民への排斥運動が力を持ち、外国人の商店が襲われた他、ドイツ系のアレクサンドラ王妃がスパイ視される風潮が生まれます。

1915年ドイツ軍がワルシャワを占領しロシアの大撤退が行われると、国内では深刻な弾薬・兵器不足に陥り、政界では政争が激化、軍事大臣ウラジーミル・スホムリノフが失脚するなど国内は混沌としていきました。

 

ラスプーチンとアレクサンドラ

 

戦局の悪化を挽回すべく、ニコライ2世は士気を維持するため皇太子アレクセイと共に親征に出撃します。これはラスプーチンの予言だったようです。しかしこの人事は連合軍に信頼が厚い、ニコライ2世従叔父、ニコライ・ニコラエヴィチ大公をクビにして行われたもので対外的には受けが悪いものでした。

 

ニコライ2世の親征中、内政はアレクサンドラと彼女が相談役としたラスプーチンが担当することになります。皇后は良妻賢母(りょうさいけんぼ)で、自ら看護師資格を取ってまで従軍し、兵士を看病する慈愛(じあい)のある人でしたが、性格は内向的で迷信深くヒステリックであり政治向きではなく、ロシア国内では評判の悪い人でした。

 

ロシア中が反皇后、反ラスプーチンの機運に

 

それに加えてアレクサンドラは現在戦っているドイツ系の皇后。

おまけに、ラスプーチンを神の如く崇拝していたので、彼女の指示は、そのままラスプーチンの意見でした。

当然、反皇后派は「現在のロシアは狂った運転手がブレーキも踏まずに狭い山道を走っているようなものだ」と猛批判。これに対し為す術がないアレクサンドラ皇后は、権力を濫用し反対派の大臣のクビを切るという感情的な措置に出てしまい事態は紛糾していきます。

 

ロシア議会は、罵り合いの巷と化し、アレクサンドラとラスプーチンをドイツのスパイと糾弾し、また二人は愛人関係にあるという風聞も飛び交います。

幕末 帝国議会

 

反アレクサンドラ皇后派は、皇帝の大臣たちは皇后とラスプーチンの傀儡(かいらい)となっていると指摘し、ラスプーチンが生きている限り、ロシアは勝利できないと叫び、わざわざ、こんなゴタゴタをパンフにして前線にまで配布し前線の士気を下げます。

厳しくなる戦況に、アレクサンドラ皇后と、ラスプーチンに対する批判は議員ばかりか、貴族や庶民にまで拡大し、アレクサンドラのイギリス追放やラスプーチンの暗殺まで計画されます。ここに至りラスプーチンは故郷のポクロフスコエ村に帰郷していきました。

ラスプーチン暗殺

不死身のラスプーチン

 

ラスプーチンは、政界から手を引く事を条件に大金と豪邸と護衛を与えると政敵から懐柔されるなど、泥沼の政治闘争から抜けられなくなります。ですが、分離するのが不可能なレベルで皇后とラスプーチンは一心同体であり、アレクサンドラのラスプーチンへの盲従も深くなっていました。

 

そして、1916年の末になると、ラスプーチンは年内の自身の死を予言し、娘の口座に自分の預金を移すなど死を意識した行動をするようになり、外出を極端に恐れるようになります。かくして、1916年12月17日、ラスプーチンは大貴族、フェリックス・ユスポフ一派によって暗殺されました。

 

不死身のラスプーチン

 

ラスプーチンが殺害されたのは、ユスポフが新築したモイカ宮殿でした。ラスプーチンを招待したユスポフは青酸カリを混入したプリフールと紅茶をラスプーチンに勧めましたが、それを飲み食いしてもラスプーチンは苦しむ様子もなく平然としていました。

 

驚いたユスポフですが、さらにラスプーチンにワインを勧めて泥酔させ、その後に自室に戻るとリボルバーを取り出し背後から2発発射しました。銃弾はラスプーチンの心臓と肺を貫き地面に倒れ込みますが、しばらくするとラスプーチンは起き上がり、目を見開き自身の危機を知って逃げようとします。

 

うろたえたユスポフは悲鳴をあげて中庭に逃れ、その騒ぎを知って2階から下りてきた同志のプリシケヴィチがラスプーチンに向かい拳銃を4発発砲、4発の内3発は外れましたが、1発は右腎静脈(うじんじょうみゃく)から背骨を貫通し、ラスプーチンは雪の上に倒れます。

 

しかし、それでもラスプーチンは起き上がったそうです。まるでゾンビです。混乱したユスポフは、何を思ったか靴でラスプーチンの右目を殴り、その後、額を拳銃で撃ち抜きます。これが致命傷になり、さしもの怪僧も事切れます。47歳でした。

 

その後、ラスプーチンの死体は絨毯で簀(す)巻きにされ、自動車に乗せて凍結したネヴァ川に捨てられ、警察に発見されますが、ロシアの大物が関与した事件の為、警察の捜査は進まず事件の真相には謎が多いようです。

 

世界史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

皇后アレクサンドラを通じてロシアの政治に関与したラスプーチンには、帝政ロシアを混乱させた責任があるでしょう。しかし、ラスプーチンは元々ドイツとの開戦には反対であり、その後もドイツとの和睦(わぼく)を模索するなど、一貫して平和主義でした。

 

ロシア正教の司教を自身の派閥に属する人間に替えるなど政治の私物化の面はありますが、晩年は暗殺に怯え、ままならない政治に疲れており、帝政ロシアを滅亡させた張本人とまではいえないでしょう。

どちらかというとラスプーチンは死後、写真の怪異(かいい)な容貌や不死身ぶり、謎だらけの暗殺の様子からミステリアスな人物像が造られて、大悪党のイメージが産み出されたのではないかと思います。

 

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kawauso編集長

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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