伊達吉村は江戸時代中期の陸奥国仙台藩の5代目の藩主です。彼が仙台藩の家督を継いだ頃、仙台藩の財政は破綻状態でどこから手を付けてよいか分からない状況でした。
しかし、そんな中で伊達吉村は仙台藩の財政立て直しに奮闘し火の車の財政を黒字にしてみせたのです。今回は仙台藩中興の祖、伊達吉村を紹介します。
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延宝8年(1680年)6月28日に誕生
伊達吉村は延宝8年6月28日、宮床伊達家初代当主、伊達宗房の嫡男として陸奥国東磐井郡大原村に生まれました。貞享3年(1686年)1月13日、父の死により家督を相続し、元禄3年(1690年)12月に10歳で元服。従兄で藩主の伊達綱村から偏諱を賜り村房と名乗ります。
元禄8年(1695年)15歳の時に陸奥一関藩主、田村建顕の養嗣子に迎えられる事になり、急遽、一家小梁川家を継いでいた弟の宗辰を呼び戻して宮床伊達家の家督を譲り村房は一門上座の家格を与えられて5月には、江戸の一関藩邸に入ります。
しかし、正式に養子縁組を幕府に願い出る前に、後継ぎがいない伊達綱村の指名で、急遽仙台藩本家の養嗣子になりました。
かくして元禄9年(1696年)11月に藩主の慣例で、5代将軍徳川綱吉から偏諱を賜って吉村に改名、元禄15年に4月26日には久我通名の娘、冬姫と結婚します。
元禄16年(1703年)養父の吉村が独裁的な政治運営と、莫大な借金を残した事で重臣達に強制隠居に追い込まれると吉村が家督を継いで5代目の仙台藩主になりました。
破産寸前の仙台藩
宝永元年(1704年)5月21日、伊達吉村は藩主として初めて仙台に入りますが、この時点で仙台藩の財政は先代綱村の浪費と乱脈政治で破綻していました。
第一に対応を迫られたのが、綱村強制隠居の直接の原因になった藩札の後始末でした。当時の藩札は、今で言う兌換紙幣で、藩札を藩に持って行けば額面と同じ金を返してもらえる仕組みでした。
ところが仙台藩は、藩札と引き換える正金もないのに、藩札だけを大量に刷ってバラまいたので財源の裏付けがなく藩札の価値が暴落しインフレになります。
もはや使えない藩札は回収しないといけませんが、はい!その通り、引き換えるには正金が必要なのでした。しかし、その金がないので、吉村は思案した挙句、藩内の知行高30石以上の藩士から手伝金の供出、つまりカンパを求めたのです。こうして、ようやく仙台藩は使えない藩札の回収を済ませたのですが、その段階での赤字額は単年度で12万3000両という巨額に上りました。
ゴミクズ同然の藩札を回収するのに、さらに借金をするというバカみたいな悪循環に加え、正徳元年(1711年)11月には幕府から日光東照宮の普請を命じられ、そんなお金はない仙台藩は、江戸と京都の商人から73000両の追加借入をする羽目になります。
検地をし直して税収アップを図るが家臣の反発で失敗
吉村は、こうした状況の改善を目指して享保10年(1725年)の年頭に寛永年間以来実施されなかった領内総検地「大改」をする事を表明します。これは耕作所有者の異動や、新田の隠し田、普請や荒れ地化による耕地面積の変化などを把握する事で土地制度の見直しと年貢の増徴を目指したものでした。
しかし、仙台藩では隠し田が不作時に年貢負担の不足分を補う機能を果たしている事や、仙台藩では一門のみならず中・下級の家臣に対しても、地方知行制を敷き、自ら耕作して家計を維持している人間が多かったので負担増になる一門層を始めとする家臣の反発が激しく、結局中止されました。
徹底した行政スリム化と貨幣鋳造、買米仕法で財政を黒字に
検地には失敗したものの、吉村は出費を制する形で藩の役職を整理、不用な役職を廃止し兼業出来る役職は兼業にして浮いた経費を藩の収入に繰り入れます。また、仙台領内で銅が産出できる事に目をつけ、幕府から許可を得て寛永通宝を石巻で鋳造して領内で流通させる事で利ザヤを得ました。
さらに、仙台が米所である事を利用し、農民から余剰米を強制的に供出させて江戸に廻航させて換金して利益を出したりしています。享保17年(1732年)西国で享保の大飢饉が発生すると、この年奥州は豊作であったので、大量の米を江戸に送って売りさばき50万両の荒稼ぎをしました。このために、仙台藩の財政は一気に好転、ようやく単年度での黒字を実現できるようになります。
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