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伊達吉村とはどんな人?仙台藩中興の祖に人気がない理由


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伊達吉村とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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吉村改革の後遺症

餓えた農民(水滸伝)

 

伊達吉村の藩政改革は、藩士や庶民の痛みを伴うものだったので、藩の財政を好転させたものの、あまり評判は高くありません。特に、余剰米を強制的に出させるやり方は、豊作の時は良かったのですが奥州で大飢饉が起きると被害を大きくする原因になりました。

 

18世紀の初頭から後半頃は、江戸市中に出回った米の大半が仙台藩のものだったと言われ、庶民にとっての伊達吉村は、余剰米を安く買いたたいて、藩の借金返済に充てる嫌な殿様だったのかも知れません。

 

伊達吉村は40年間という長い期間藩主として君臨し寛保(かんほう)3年(1743年)7月に四男久村(ひさむら)(宗村)に家督を譲って隠居し宝暦元年12月24日に72歳で死去しました。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

伊達吉村は、性格的に物事を深く考え思慮深く、政治に対する取り組みも人並みに優れ、藩を以前の姿に戻したいという志を持ち、仁愛をもって人に接しうる人柄だったそうですが、他方で理詰めに行き過ぎて理屈っぽい人柄だったようです。

 

つまり、良い人ではあっても、表面的に付き合いやすい性格では無かったのでしょう。これも、吉村が藩政改革を成し遂げながら、今でも人気がない原因の一つかも知れませんね。

(文:kawauso)

 

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科挙の歴史

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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