こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
吉村改革の後遺症
伊達吉村の藩政改革は、藩士や庶民の痛みを伴うものだったので、藩の財政を好転させたものの、あまり評判は高くありません。特に、余剰米を強制的に出させるやり方は、豊作の時は良かったのですが奥州で大飢饉が起きると被害を大きくする原因になりました。
18世紀の初頭から後半頃は、江戸市中に出回った米の大半が仙台藩のものだったと言われ、庶民にとっての伊達吉村は、余剰米を安く買いたたいて、藩の借金返済に充てる嫌な殿様だったのかも知れません。
伊達吉村は40年間という長い期間藩主として君臨し寛保3年(1743年)7月に四男久村(宗村)に家督を譲って隠居し宝暦元年12月24日に72歳で死去しました。
日本史ライターkawausoの独り言
伊達吉村は、性格的に物事を深く考え思慮深く、政治に対する取り組みも人並みに優れ、藩を以前の姿に戻したいという志を持ち、仁愛をもって人に接しうる人柄だったそうですが、他方で理詰めに行き過ぎて理屈っぽい人柄だったようです。
つまり、良い人ではあっても、表面的に付き合いやすい性格では無かったのでしょう。これも、吉村が藩政改革を成し遂げながら、今でも人気がない原因の一つかも知れませんね。
(文:kawauso)
関連記事:伊達政宗の死因は食道癌だった?遅れてきた天才の晩年の最期
関連記事:伊達政宗の逸話や過激エピソードは本当なの?眼帯や親殺しは創作?