マタ・ハリは、フランスのパリを中心に活躍したオランダ人ダンサーでストリッパーです。同時に彼女は娼婦でもあり第一次世界大戦中に複数のフランス軍人、ドイツ軍人とベッドを共にし軍事機密を盗む女スパイでもありました。
今回は美貌の女スパイ、マタ・ハリの虚像と実像について解説します。
この記事の目次
裕福な家に生まれるが父が石油投機で失敗し破産
マタ・ハリこと、マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレは1876年8月7日オランダ・フリースラント州レーワルデンで、父アダム・ツェレと母、アンテェ・ファン・デル・ムーレンの間に4人兄弟の長女として産まれます。
東洋風の芸名とは裏腹にツェレ家にもムーレン家にも東洋系の血を引く先祖はいないようです。
ツェレ家は父のアダムが石油投資の成功と人気帽子店を経営していた事で贅沢な暮らしが出来るほどに裕福な家庭で、マルガレータも唯一の娘という事で父から溺愛され、何不自由ない生活を送り13歳までは上級学校に通えていました。
しかし、父アダムは石油株の投資に失敗、損失補填を借金で穴埋めすると、その借金は雪だるま式に膨らんでいき1889年破産。その後両親は離婚し、マルガレータを含め、子供達はそれぞれ別の親戚の元へ引き取られました。母のアンテェは1891年に死去、父はアムステルダムにて再婚しています。
19歳でオランダ軍将校と結婚
ツェレ家は一家離散し、マルガレータは自分の後見人のヘール・フィッセルを頼ってライデンに移住します。成長して経済的な自立に迫られた彼女は、ライデンで幼稚園の教諭になるために勉強しますが、学長と露骨に戯れるようになったマルガレータに気分を害したフィッセルにより施設から追われました。
それから数ヵ月後、彼女は叔父の家があるデン・ハーグに逃れます。マルガレータは19歳の時、新聞に掲載された結婚相手募集の広告に応募し21歳も年上のオランダ軍将校ルドルフ・ジョン・マクリード大尉と結婚します。
それは出会いから100日後というスピード結婚でした。
性格の不一致で離婚
マルガレータは、夫の仕事に伴い駐留先のボルネオ、スマトラ、ジャワへ移転し2児を儲けます。しかし、元々、生活に困っての結婚であり、若く派手好きなマルガレータの性格に夫のルドルフはついていけず、夫婦の気持ちはすれ違います。
ルドルフも女癖が悪く、また家庭内暴力もあったので夫婦仲はすぐに悪化していきました。
そんな折、息子が亡くなった事で二人の溝は決定的になり結婚7年目の1902年に離婚が成立、息子はルドルフが引き取ります。離婚したマルガレータはオランダに帰国し、間もなく職を求めてパリに渡りました。しかし、今とは比較にならない程に女性の職業選択の幅がなかった時代、望んでいる仕事は見つからず生活は困窮していきます。
見よう見まねのジャワダンスでデビュー
ある日、マルガレータは友人のパーティーの余興で見よう見まねのジャワ舞踏を披露します。すると、これが大ウケ、すぐにダンサーの話が持ちかけられました。
1905年マルガレータはエキゾチックな容姿を活かし、インドネシア・ジャワ島からやってきた王女、またはインド寺院の踊り巫女という触れ込みでダンサーとしてデビューします。
オリエンタル・スタイルの舞踊を演じた彼女の興行は大成功し、最初は小さなサロンで少人数の客を相手に踊りを披露するだけだったものが、噂は瞬く間に広がります。
かくして、興行場所は欧州全域に拡大、遂にはイタリアのミラノ・スカラ座で公演を果たすなど、一躍人気ダンサーになりました。この頃からマルガレータは、より観客に受けるように東洋的な「マタ・ハリ」の名前を名乗り始めます。マタ・ハリとは太陽、あるいは日の眼を意味するムラユ語、またはマレー語、インドネシア語であるそうです。
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