大人気春秋戦国時代漫画キングダム、2週間休載している間に!原作者の原泰久とこじるりが熱愛なんて報じられたりしちゃったりなんかして!いやったらしいんだからこの助平が!(広川太一郎風)なキングダムですが、今回は、大真面目に謎に包まれた李牧の最期の戦いについて考えてみます。
この記事の目次
キングダム雑学「王翦と李牧はどこで対峙していた?」
李牧は紀元前229年、趙の邯鄲防衛ラインだった井陘を突破してきて、そこで李牧&司馬尚に阻まれます。結局、李牧と司馬尚の防衛ラインを抜けなかった王翦は計略を用いて郭開を買収し、幽繆王に李牧の讒言を吹き込んで処刑に追い込むわけです。
司馬尚は処刑されなかったものの、後難を恐れて逃げてしまい、指揮官は趙葱と斉の将顔聚に交代になりますが、所詮は王翦の敵ではなく簡単に敗北して邯鄲は落ちてしまいました。
では、ありますが、王翦と李牧がどこで対峙していたか歴史書にはどこにも書いていないのです。
キングダム雑学「楚漢戦争の井陘の戦いから推測する」
紀元前229年の戦いは詳細が不明ですが、同じく井陘が戦いの舞台になった事があります。
それは、李牧と王翦の戦いを下る事25年、紀元前204年に漢の将軍、韓信が趙の総大将の陳余を滅ぼした井陘の戦いです。
この戦いの韓信の足取りは、王翦のそれによく似ていて、最初に魏を下して太行山脈を進み、代を落としてから井陘という隘路を潜り抜けるというルートを取っています。
陳余には、李左車という李牧の孫にあたる軍師がいて、韓信の3万の軍勢が井陘口という馬車も並んで通れないような狭い道を通った時に、本隊が出口を塞ぎ、別動隊が迂回して韓信の補給部隊を撃破し、袋小路に陥った韓信軍を挟撃するという計略を立てていました。
流石は李牧の孫という所ですが、陳余はプライドが高く、
「我が軍は20万、韓信は3万ではないか?大軍が小軍を計略で滅ぼすなど、そんな臆病な闘い方では、諸侯に笑われてしまうわい」と李左車の進言を却下します。
それを聞いた韓信はラッキー!とそそくさと井陘口を抜けてしまい、陳余は折角の勝利のチャンスを潰してしまうのです。
キングダム雑学「李牧と王翦は泜水で対峙した」
この後、韓信は背水の陣を敷いて、陳余の大軍を水際で防ぎ、空になった陳余の城に別動隊2000を忍び込ませ、趙の旗を捨て漢の赤旗を掲げさせたので、城を奪われた趙の20万の大軍は総崩れになって韓信は大勝利したとあります。
その後、陳余は韓信の配下の張蒼に捕えられて捕虜になり、泜水のほとりで斬られたとWikipediaにはあります。
さらに、中国の百度百科で、泜水を調べると、ここは現在の泜河という河であり、現在は年中流れがあるわけではない季節性の河川であると分かりました。
さて、ここからはさらに推測です。
王翦も韓信ももっとも危険な井陘口を抜けてから、一方は李牧、一方は陳余と対峙しています。しかし、太行山脈を抜けると周辺は平原で行軍を制限する障害物はありません。
あるとすれば、ただ1つ、それは渡河するのに時間がかかり、同時に襲い掛かられると危険な河川だけです。
だとすると、王翦と李牧も、韓信と陳余同様に、泜水を挟んで南北に対峙したのではないか?とkawausoは推測するのです。
キングダム雑学「泜水の南に趙の旧王都があった」
しかし、井陘の戦いでは、陳余は城を拠点にしている事が分かります。
でも、それが何と言う城か史記には記述がないので、またWikipediaで調べ色々要約してみると、紀元前372年に、趙の成侯が泜水の南に都を置いて檀台と名付け、以来、諸侯が挨拶にくるようになったという記述があり、古名は邢台というみたいな記述があります。
kawausoは、中国語に不慣れなので翻訳は怪しいですが、諸侯が入朝する以上、ここには王に当たる人がいて立派な建物があったと考えておかしくはないと思います。
そして、その城市は現在でも邢台市として存在し、邯鄲の真上に当たるのです。
※地図参照
もうもうもう!位置関係と言い河の流れといい、王翦と李牧が対峙した場所とは、この邢台市の北を流れる泜河なんじゃないでしょうか?
つまり、25年後に韓信と陳余が対峙したその場所で、王翦と李牧もにらみ合いをしていた?
そういう事になるんじゃないかと推測します。
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