昭和の頃まで江戸時代と言えば、武士が威張り散らし庶民を圧迫、少しでも逆らう者は斬り捨て御免!という暗黒時代として描かれていました。しかし、江戸時代の研究が進むにつれ、斬り捨て御免など滅多になく、大名行列も庶民が少し離れた場所から豪華さを見て楽しむイベントだった事が分ってきました。
そればかりか、江戸には大名や旗本の解説ガイドブックまで存在していたのです。
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商人から旅行者まで利用した大名・旗本ガイド武鑑
江戸は百万都市だったと言われていますが、人口の半分は武士で占められました。逆に天下の台所大坂の武士人口は、全体で200人くらいだったそうですから、江戸が突出した軍都だったか分かります。
さて、その武士は軍人なので、基本、生産活動には従事せず、生活に必要なモノは商人から買い入れる事になります。しかし、武家屋敷は広範囲に広がり、さらにはデカいですから、商人は、どこにどんな大名の屋敷があるか把握していないと商売になりません。
そこで誕生したのが武鑑という大名や旗本のガイドブックでした。
今で言うと、プロ野球年鑑が一番近く、武家の当主の氏名や官位、家紋、石高、役職、内室(正室)城地、格式、菩提寺、上屋敷・中屋敷の住所、幕府への献上品や行列の指物、仕えている部下の名前が、見やすいレイアウトで分りやすく記載されています。
武鑑は、江戸にやってくる地方の人々の旅行ガイドブックの役割を果たし、武鑑片手に大名や旗本屋敷を確認してまわる人々もいました。また、江戸時代は、幕府の命令で姻戚関係以外での大名家同士の付き合いが禁止されていたので、外ならぬ大名が他藩を知る為に武鑑を購入していた記録が残っています。
まるでプロ野球年鑑 毎年更新される武鑑
また、全国に300もある大名家では当主が隠居して家督を譲ったり、官途が昇進したり、役職がついたり、国替えなどで領地が代わる事もあるので、これまたプロ野球年鑑のように毎年武鑑は更新されて、新しい物が出版されています。
この武鑑は1年経過すると情報が古くなるので毎年購入する必要があり、幕末の改元新版では1万5千部、役替り改訂版では、年千部を売っていました。
あの有名な曲亭馬琴の筆による南総里見八犬伝は、一番売れた時でも年500部だそうで、貧しい庶民は貸本屋で借りて読んだそうですから、1万5千部が、いかに桁外れの数字が分かりますね。武鑑は当時の版元にとっては、ドル箱の超ヒット商品だったのです。
武鑑発行を巡る版元の抗争
実際に武鑑の利益を巡り、江戸最大の書物問屋の須原屋茂兵衛と、幕府御書物師の出雲寺和泉掾が、それぞれ別々に武鑑を販売して抗争していた時期もあります。これは、7代目須原屋茂兵衛が武鑑の独占販売権を獲得して抗争に勝利し、傾いていた稼業を立て直して終結しました。
独占販売権とは、武鑑が幕府が認めた公発行物になったという意味です。須原屋茂兵衛の武鑑は、おそらく正確性において評価が高かったのだと思います。
しかし、敗れた出雲寺和泉掾が出版を止めたわけではなく、非公式版として武鑑を出し続け、それは、版籍奉還で藩が消滅する明治2年(1869年)の万世武鑑まで続きました。
その後、須原屋茂兵衛は、明治政府の太政官日誌や太政官布告、文部省教科書を受注して生き残ろうとしますが、博文館との入札に敗れるなどして時流に乗れず明治37年に廃業したそうです。
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