過去には大英帝国として、世界の七つの海を支配したイギリス。日本と同じく島国であり、立憲君主国である事から明治維新前後の日本から多くの人々が渡英して西洋の新知識を吸収した国でもあります。
そんな馴染み深いイギリスですが、歴史というと部分部分しか知らない人も多いでしょう。今回のまるっと世界史は、海賊によって建国されたイギリスの歴史(後編)を解説します。
この記事の目次
第1次世界大戦
1914年6月28日、サライェヴォ事件が起こり、7月には第一次世界大戦が勃発しました。当時のイギリス首相アスキスは大陸の戦争には加わらないつもりで、外相グレイを派遣してオーストリアとロシア、ドイツとフランスの間を調停する国際会議を提唱するなど早期の解決を図りますが、いずれも失敗。
8月4日、ドイツが中立国ベルギーに侵攻するに及び参戦を決意します。表向きの名目は、ベルギーがイギリスの大陸への玄関口であり、ここをドイツに握られる事はイギリスの安全保障を脅かすからとされていました。
権力者の独断で戦争を起こせた19世紀と違い、多くの市民が選挙権を獲得した20世紀は明確で具体的な危機を持ち出さなければ輿論の支持を得られず戦争を継続する事が難しくなっていたのです。
この国民世論の誕生は、戦争の本当の要因を覆い隠しプロパガンダ宣伝を駆使し自国民に敵と見なした国への憎悪や危機意識を煽る事で、開戦のムードを造るという悪しき風潮を作り出し、現在でも繰り返し行われています。
第一次大戦への参戦を最初から主張していたのは海軍大臣で野心家のチャーチルでした。しかし、彼が主導したガリポリ上陸作戦が失敗して多くの戦病者を出し、戦争が長期化した事で保守党の批判が強くなり、チャーチルは辞任。
1916年12月、自由党の反アスキス派、ロイド=ジョージが保守党・労働党と挙国一致内閣を組閣します。
大戦の深い爪痕
第1次世界大戦はイギリスとドイツの帝国主義国の対立が最も大きな要因でした。イギリス本土は戦場にならなかったものの、本国及びイギリス帝国議会に属する植民地や自治領から多くの人員と物資を投入し多大な犠牲を払う事になります。
また、それまでのイギリス軍はジェントリ階層の職業軍人と庶民からの義勇兵で組織されていましたが、1916年1月に人員不足から初めて徴兵制を導入。18歳から41歳の独身男性はすべて戦場に駆り出され本国だけで670万人、海外植民地でも240万人が動員され、全体では919万人が出征しました。
第1次大戦のイギリスは軍人の死者89万人、文民の死者11万人、自治領の軍人死者16万人、インドの軍人戦死者が7万人に及び、第2次世界大戦の戦死者38万人の倍以上であり、第1次世界大戦の総戦死者900万人のおよそ10%を占めました。
イギリスにとっての第1次世界大戦は、第2次大戦よりも深い爪痕となったのです。
空前の被害者を出した大戦はアメリカ合衆国の経済支援と連合国への参戦、ロシア革命の勃発でロシアが戦争から離脱した事で1918年11月に終結。ドイツを主体とする同盟国は破れイギリスは戦勝国となりました。
ヴェルサイユ体制と中東問題
1919年のパリ講和会議でイギリス代表のロイド=ジョージはフランスと共に敗戦国ドイツに対する多額の賠償金など厳しい要求を押し付け、ヴェルサイユ条約に調印し、ヴェルサイユ条約体制の主要メンバーになります。
また、イギリスは中東ではオスマン帝国と戦う必要性から、アラブ人とはフセイン=マクマホン協定を結んで独立を承認し、ユダヤ人とは、バルフォア宣言で、独立を認めます。ところが、イギリスは一方で、フランスとの密約、サイクス=ピコ協定を結んで、アラブ人とユダヤ人との間の協定を無視、旧オスマン帝国を分割し委任統治としたのです。
このイギリスの二枚舌外交により、現在まで尾を引く民族と宗教を巡る中東問題が引き起こされる事になりました。
労働党の躍進と普通選挙
第1次大戦後中の1918年2月、4回目の選挙法改正により、普通選挙が実現して労働者の有権者が増大し労働党が躍進します。労働党党首のマクドナルドは、1924年に自由党と連立内閣を組織して初めて政権の一翼を担い、発足したソビエト連邦を承認する業績を残しました。
大戦後の1928年には五回目の選挙法改正で、男女平等選挙権が実現して労働党は党勢をさらに伸ばし、1929年にはマクドナルド労働党単独内閣を組閣。自由党は次第に衰退し、二大政党制は保守党と労働党に移行しました。
イギリス帝国領での独立運動
イギリスは白人植民地については1867年のカナダを始めとして1901年のオーストラリア連邦、1907年のニュージーランド、1910年の南アフリカ連邦などの自治領を認め、イギリス植民地会議を改称して、イギリス帝国会議とし植民地及び自治領を「イギリス帝国」として拘束しようとします。
その顕著なケースが第1次世界大戦でのインドからの兵力の動員です。しかし、大勢の死者を出したインドでは、大戦後にイギリスの拘束を受ける自治領ではなくイギリス本国と対等の関係を求める声が強まります。
特に有色人種として差別視され、自治権さえ認められないインドなどの直轄の植民地でも独立を要求する声が強くなりました。イギリスは白人種と有色人種を区別し、白人種の国については本国と同じ権利を認め、さらに1931年にはウェストミンスター憲章を交付。
旧自治領に本国と対等な関係と認めつつ、かわりに協力関係を維持するとしてイギリス連邦を発足させます。
アイルランド問題
この頃、イギリス最古でやっかいな植民地であるアイルランドでも独立の機運が高まっていましたが、イギリス本国に近いアイルランドの独立をイギリス連邦は容易に認めようとはしませんでした。
1914年に、ようやくアイルランド自治法が成立したものの、大戦の勃発で実施が延期となり、1916年には急進派がイースター蜂起を起こしアイルランド共和国の独立を宣言しますが鎮圧されます。
そんな中、アイルランド民族主義政党シン=フェイン党は、過激な主張でイギリス本国の不当な弾圧に不満を持つ民衆の支持を集め1918年の選挙で躍進し、指導者デ=ヴァレラはダブリンで独自に議会を開催し、アイルランド共和国の独立を宣言します。
イギリスはそれを認めず、1919年からイギリス政府軍とアイルランドの間でイギリス=アイルランド戦争が起こりました。大戦終結後も、アイルランドとの戦争を続けていたイギリスは、1920年にロイド=ジョージ首相がアイルランド統治法を成立させ収束を図ります。
これは、アイルランドを南北に分割して北はイギリスの統治の下で一定の自治を与え、南は自治領としてカナダなどと同じ実質的な独立を認めようというものでした。シン=フェイン党の代表もロイド=ジョージの提案を認めて妥協が成立。
アイルランドのカトリックが多い南部26州は「アイルランド自由国」として独立、プロテスタントの多い北アイルランドは分離しイギリス領に残しながら地方議会、地方政府などの一定の自治が与えられます。こうして、1922年からイギリスの正式国号は大ブリテン及び北アイルランド連合王国となりますが、アイルランドでは分離独立を将来の完全独立の一段階として容認する人々と、あくまで完全独立と共和政を求める少数派の急進派に分裂し、双方は武装して内戦に突入しました。
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