海賊が建国したイギリスはどうやって生まれたの?英国の歴史(後編)

2021年5月30日

編集体制の詳細を見る
kawauso編集長(石原 昌光)

編集責任者

kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

提供する掲載情報について

『はじめての三国志』は、複数の企業と提携し情報を提供しており、当メディアを経由して商品への申込みがあった場合には、各企業から支払いを受け取ることがあります。

ただし、当メディア内での商品評価に関して、提携の有無や支払いの有無が影響を及ぼすことはありません。また、当メディアで得た収益は、読者の皆様により役立つコンテンツ制作へ還元し、情報の正確性担保に努めています。

詳しくは 編集ポリシー をご覧ください。


 

紅茶一揆(イギリスの紅茶文化と戦車)

 

過去には大英帝国として、世界の七つの海を支配したイギリス。日本と同じく島国であり、立憲君主国である事から明治維新(めいじいしん)前後の日本から多くの人々が渡英して西洋の新知識を吸収した国でもあります。

 

そんな馴染み深いイギリスですが、歴史というと部分部分しか知らない人も多いでしょう。今回のまるっと世界史は、海賊によって建国されたイギリスの歴史(後編)を解説します。

 

第1次世界大戦

飛行機(プロペラ)に乗るkawausoさん

 

1914年6月28日、サライェヴォ事件が起こり、7月には第一次世界大戦が勃発しました。当時のイギリス首相アスキスは大陸の戦争には加わらないつもりで、外相グレイを派遣してオーストリアとロシア、ドイツとフランスの間を調停する国際会議を提唱するなど早期の解決を図りますが、いずれも失敗。

 

8月4日、ドイツが中立国ベルギーに侵攻するに及び参戦を決意します。表向きの名目は、ベルギーがイギリスの大陸への玄関口であり、ここをドイツに握られる事はイギリスの安全保障を脅かすからとされていました。

 

権力者の独断で戦争を起こせた19世紀と違い、多くの市民が選挙権を獲得した20世紀は明確で具体的な危機を持ち出さなければ輿論の支持を得られず戦争を継続する事が難しくなっていたのです。

 

君主論

 

この国民世論の誕生は、戦争の本当の要因を覆い隠しプロパガンダ宣伝を駆使し自国民に敵と見なした国への憎悪や危機意識を煽る事で、開戦のムードを造るという悪しき風潮を作り出し、現在でも繰り返し行われています。

 

チャーチル

 

第一次大戦への参戦を最初から主張していたのは海軍大臣で野心家のチャーチルでした。しかし、彼が主導したガリポリ上陸作戦が失敗して多くの戦病者を出し、戦争が長期化した事で保守党の批判が強くなり、チャーチルは辞任。

 

1916年12月、自由党の反アスキス派、ロイド=ジョージが保守党・労働党と挙国一致内閣を組閣します。

 

大戦の深い爪痕

 

第1次世界大戦はイギリスとドイツの帝国主義国の対立が最も大きな要因でした。イギリス本土は戦場にならなかったものの、本国及びイギリス帝国議会に属する植民地や自治領から多くの人員と物資を投入し多大な犠牲を払う事になります。

 

また、それまでのイギリス軍はジェントリ階層の職業軍人と庶民からの義勇兵で組織されていましたが、1916年1月に人員不足から初めて徴兵制を導入。18歳から41歳の独身男性はすべて戦場に駆り出され本国だけで670万人、海外植民地でも240万人が動員され、全体では919万人が出征しました。

 

第1次大戦のイギリスは軍人の死者89万人、文民の死者11万人、自治領の軍人死者16万人、インドの軍人戦死者が7万人に及び、第2次世界大戦の戦死者38万人の倍以上であり、第1次世界大戦の総戦死者900万人のおよそ10%を占めました。

 

イギリスにとっての第1次世界大戦は、第2次大戦よりも深い爪痕となったのです。

 

空前の被害者を出した大戦はアメリカ合衆国の経済支援と連合国への参戦、ロシア革命の勃発でロシアが戦争から離脱した事で1918年11月に終結。ドイツを主体とする同盟国は破れイギリスは戦勝国となりました。

 

まるっと世界史 特集バナー

 

ヴェルサイユ体制と中東問題

国会議事堂

 

1919年のパリ講和会議でイギリス代表のロイド=ジョージはフランスと共に敗戦国ドイツに対する多額の賠償金など厳しい要求を押し付け、ヴェルサイユ条約に調印し、ヴェルサイユ条約体制の主要メンバーになります。

 

また、イギリスは中東ではオスマン帝国と戦う必要性から、アラブ人とはフセイン=マクマホン協定を結んで独立を承認し、ユダヤ人とは、バルフォア宣言で、独立を認めます。ところが、イギリスは一方で、フランスとの密約、サイクス=ピコ協定を結んで、アラブ人とユダヤ人との間の協定を無視、旧オスマン帝国を分割し委任統治としたのです。

 

このイギリスの二枚舌外交により、現在まで尾を引く民族と宗教を巡る中東問題が引き起こされる事になりました。

 

労働党の躍進と普通選挙

 

第1次大戦後中の1918年2月、4回目の選挙法改正により、普通選挙が実現して労働者の有権者が増大し労働党が躍進します。労働党党首のマクドナルドは、1924年に自由党と連立内閣を組織して初めて政権の一翼を担い、発足したソビエト連邦を承認する業績を残しました。

 

大戦後の1928年には五回目の選挙法改正で、男女平等選挙権が実現して労働党は党勢をさらに伸ばし、1929年にはマクドナルド労働党単独内閣を組閣。自由党は次第に衰退し、二大政党制は保守党と労働党に移行しました。

 

イギリス帝国領での独立運動

 

イギリスは白人植民地については1867年のカナダを始めとして1901年のオーストラリア連邦、1907年のニュージーランド、1910年の南アフリカ連邦などの自治領を認め、イギリス植民地会議を改称して、イギリス帝国会議とし植民地及び自治領を「イギリス帝国」として拘束しようとします。

 

その顕著なケースが第1次世界大戦でのインドからの兵力の動員です。しかし、大勢の死者を出したインドでは、大戦後にイギリスの拘束を受ける自治領ではなくイギリス本国と対等の関係を求める声が強まります。

 

特に有色人種として差別視され、自治権さえ認められないインドなどの直轄の植民地でも独立を要求する声が強くなりました。イギリスは白人種と有色人種を区別し、白人種の国については本国と同じ権利を認め、さらに1931年にはウェストミンスター憲章を交付。

 

旧自治領に本国と対等な関係と認めつつ、かわりに協力関係を維持するとしてイギリス連邦を発足させます。

 

アイルランド問題

 

この頃、イギリス最古でやっかいな植民地であるアイルランドでも独立の機運が高まっていましたが、イギリス本国に近いアイルランドの独立をイギリス連邦は容易に認めようとはしませんでした。

 

1914年に、ようやくアイルランド自治法が成立したものの、大戦の勃発で実施が延期となり、1916年には急進派がイースター蜂起(ほうき)を起こしアイルランド共和国の独立を宣言しますが鎮圧されます。

 

そんな中、アイルランド民族主義政党シン=フェイン党は、過激な主張でイギリス本国の不当な弾圧に不満を持つ民衆の支持を集め1918年の選挙で躍進し、指導者デ=ヴァレラはダブリンで独自に議会を開催し、アイルランド共和国の独立を宣言します。

 

イギリスはそれを認めず、1919年からイギリス政府軍とアイルランドの間でイギリス=アイルランド戦争が起こりました。大戦終結後も、アイルランドとの戦争を続けていたイギリスは、1920年にロイド=ジョージ首相がアイルランド統治法を成立させ収束を図ります。

 

これは、アイルランドを南北に分割して北はイギリスの統治の下で一定の自治を与え、南は自治領としてカナダなどと同じ実質的な独立を認めようというものでした。シン=フェイン党の代表もロイド=ジョージの提案を認めて妥協が成立。

 

アイルランドのカトリックが多い南部26州は「アイルランド自由国」として独立、プロテスタントの多い北アイルランドは分離しイギリス領に残しながら地方議会、地方政府などの一定の自治が与えられます。こうして、1922年からイギリスの正式国号は大ブリテン及び北アイルランド連合王国となりますが、アイルランドでは分離独立を将来の完全独立の一段階として容認する人々と、あくまで完全独立と共和政を求める少数派の急進派に分裂し、双方は武装して内戦に突入しました。

インド独立運動とガンジーの台頭

インドの独立を勝ち取ったガンジー

 

一方でイギリス領として残った北アイルランドでは多数派であるプロテスタント系住民による少数のカトリック教徒に対する差別が激しくなりカトリック側ではアイルランドとの統一を要求する急進派のアイルランド共和国が活動を続けますが、分裂が続き運動は停滞していきます。

 

一方でイギリスの直轄植民地であったインド帝国では、高まるインド反英闘争を抑えるために1905年にベンガル分割令を出しヒンドウー教徒とイスラム教徒の分断を図ります。

 

それに対してインド国民会議が翌年に軽かった大会を開催して自治の要求を鮮明にしました。インドの独立運動はイギリス当局の懐柔と弾圧で辛うじて抑えられていましたが、第1次世界大戦後にインド統治法・ローラット法による強圧的な支配が始まるとあらたに国民議会の指導者となったガンディーが1919年から第1次非暴力・不服従運動を開始。

 

ガンジー

 

それに対しイギリスはアムリットサール事件では力で運動を抑えさらにインド統治法で地方政治での一定の自治を認める事で一応の収束を図りました。

 

イギリス海洋帝国の落日

軍艦(明治時代)

 

イギリスは第1次世界大戦で国力を大きく消耗し、アメリカ経済への依存を強め、世界経済の覇権はアメリカに移行します。国際政治ではアメリカ大統領ウィルソンの提唱した国際連盟の常任理事国として重要な役割を果たし、労働党政権下ではロシア革命で成立したソ連を承認。

 

1922年にはワシントン会議に参加し、ワシントン海軍軍備制限条約(かいぐんぐんびせいげんじょうやく)に調印しますが、それは主力艦の比率をアメリカと同じにする内容でイギリスの海軍力が世界を支配していた時代が終わった事を示していました。

 

世界恐慌とブロック経済

みずほ銀行風

 

ヴェルサイユ条約で巨額の賠償金を課せられたドイツですが、アメリカの支援で経済を復興させようとしていました。しかし1929年にそのアメリカで世界恐慌が発生し、ドイツはもちろん、ドイツからの賠償金で経済を立て直そうとしていたイギリス・フランスをも直撃します。

 

イギリスでは恐慌対策として労働党のマクドナルドが対応しますが、マクドナルドが打ち出した緊縮財政のための失業保険削減は労働党内部でも反対が多く紛糾。マクドナルドは労働党を離れて保守党と協力し、1931年8月にマクドナルド挙国一致内閣が成立します。

 

挙国一致内閣では、内需を守るために1931年9月には金本位制からの離脱、保護関税政策の導入に踏み切り、1932年にはオタワ連邦会議を開催しイギリス連邦を抱き込んでのブロック経済を敷きましたが、保護貿易は世界の貿易量を減少させ、不況を加速させました。

 

世界恐慌の影響で従来の政党政治への失望が広がる中、イタリアでは、ベニト=ムッソリーニが、国家と国民の鉄の団結による統制経済で世界恐慌を乗り越えようと訴えて、クーデターに成功しファシズム政権を樹立。

 

ファシズムは隣国のドイツに波及し、1930年代、アドルフ=ヒトラーのナチスが台頭、ヴェルサイユ体制打破を叫んで国際連盟を脱退、1935年には再軍備を宣言し、欧州の脅威に成長していきました。

 

また、資本主義国イギリスに取っては、社会主義経済を推進するソビエト連邦も大きな脅威だと考えられるようになり、ドイツよりソビエトの台頭を危惧する世論が形成されます。

 

関連記事:ツングースカ大爆発はどの程度の衝撃?100年前の隕石衝突の謎

関連記事:シモ・ヘイヘとはどんな人?射殺人数世界一のスナイパー

 

インドで独立運動の機運が高まる

 

同じ頃インドでは、マクドナルド労働党が、インドに一定の自治を認める事に舵を切り、1929年に第1回円卓会議(えんたくかいぎ)を開催します。しかし、世界恐慌の影響で、農村の貧困が一層進んだインドでは、国民会議派の中のネルーなどの若い活動家が完全独立を要求し会議をボイコット。

 

1930年1月からガンディーが塩税に反対して、塩の行進を開始し、第2次非暴力・不服従運動が起きて反英闘争が盛り上がりました。これに対しイギリスは、ムスリムとヒンドゥー教徒の対立を利用した巧みな分割統治で運動を抑圧します。

 

ドイツ融和策が事態を悪化させる

 

1933年にナチスドイツはドイツの政権を掌握、ヒトラーは総統に就任し再軍備を宣言し、ヴェルサイユ体制から離脱し領土拡張路線を取ります。しかし、イギリスの対応はドイツよりもソビエトの脅威に向けられ、1935年6月の英独海軍協定(えいどくかいぐんきょうてい)を締結するなど融和対策を取りました。

 

1936年スペインで人民戦線内閣が成立すると、フランコ将軍などの軍が反乱を開始しスペイン戦争が勃発します。ヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリア、ファシズム陣営は、ただちにフランコ軍に対する軍事支援を開始。

 

人民戦線政府はイギリスとフランスに支援を要請しますが、イギリスのボールドウィン首相は、フランスのブルム首相に働きかけ不干渉政策を取りました。理由は、人民戦線政府は共産党に支援されており、ソ連も支援を表明しているので、それに手を貸す事は欧州の共産勢力の拡大につながるというものです。

 

こうして戦争はフランコ軍の優位で進み、1938年までに人民戦線はほぼ壊滅、スペインにはフランコ軍事独裁政権が誕生しました。1938年、ヒトラーはオーストリア併合を実行し、さらにチェコスロバキアに対しズデーテン地方の割譲を要求します。

 

これは、ドイツ人の民族統一や民族自決という一見すると正当な要求を装っていたため、イギリス首相ネヴィル=チェンバレンはヒトラーの要求を認める事でそれ以上の領土要求を抑えヨーロッパの平和を実現できると判断、ミュンヘン会議でズデーテン割譲を容認しました。

 

しかし、国際連盟に諮られる事もなく、当事者であるチェコスロバキアも参加できない会議で一方的に決められた決定は、ゴリ押しすれば領土は簡単に拡大できるという自信をヒトラーに与え、より侵略を加速させるという逆の結果を産み出したのです。

 

ヒトラーは1939年ポーランドに対してダンツィヒの割譲とポーランド回廊の自由通過を要求します。これにより、ミュンヘン会談がヒトラーの領土欲の阻止に繋がらなかった事が明らかになり、チェンバレンへの批判が高まりこうした輿論に抗しきれなくなったチェンバレンは、ドイツを非難しポーランド支援を明言しました。

 

ヒトラーはイギリスの態度に不信感を持ち、ソ連のスターリンとの間で独ソ不可侵条約を締結した上で1939年9月、ポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まります。

 

イギリスはフランスと共に宣戦を布告しますが、ポーランドを救援する軍隊を送ることなく静観の構えを取りました。しかし、ヒトラーはポーランドをソ連と分割し終えると、その矛先を西側に向け、1940年4月デンマーク・ノルウェー侵攻を開始。

 

これは直接にイギリスへの脅威となったのでイギリス海軍はドイツのノルウェー上陸を阻止しようとしますが失敗。チェンバレンは敗北の責任を取り辞任しました。

 

第2次世界大戦とチャーチル挙国一致内閣

 

1940年5月10日、長年ヒトラーへの警戒を呼び掛け、政府の融和政策を批判していたウィンストン=チャーチルが首相に就任。労働党と挙国一致内閣を組織します。

 

ちょうどその日、ドイツ軍のオランダ・ベルギー進行が開始、英仏連合軍はたちまち追い詰められ、イギリス陸軍はダンケルクに取り残されました。チャーチルは、民間漁船まで動員してダンケルクのイギリス兵士の救出に成功すると、本土防衛体制を強化します。

 

ドイツ軍の快進撃は止まらず、5月中にフランス軍を制圧してフランスの北半分を占領、ドーヴァー海峡を越えてイギリス本土を目指し、その前哨戦としてイギリス本土に激しい空爆を加えました。イギリス最大の危機でしたが、イギリス国民は空爆に耐え、イギリス空軍も善戦して制空権を守ったため、ドイツ軍はイギリス本土上陸を断念します。

 

「バトルオブブリテン」を指揮し、ドイツ軍上陸を阻止した事でチャーチルの戦争指導は国民の支持を得て、ドイツ敗戦までの長期政権を維持しました。

 

関連記事:ウィンストン・チャーチルは第二次世界大戦勃発までオワコン政治家だった

関連記事:ヒトラーは「我が闘争」の税金から逃走ってホント?

 

アメリカの参戦とソビエトとの同盟

 

欧州では、1941年、英国上陸に失敗したヒトラーが西部戦線の行き詰まりを東部で打開しようと不可侵条約を結んだソ連に侵攻します。これによりソ連は対ドイツでイギリスと結ぶ必要が産まれ、英ソ軍事同盟(ぐんじどうめい)が締結されました。

 

一方でアメリカ合衆国は武器貸与法を制定してイギリスなど反枢軸国(はんすじくこく)への武器支援を決めて実質的な参戦を果たします。1941年8月9日、チャーチルはフランクリン=ローズヴェルトと太平洋会談をおこない、枢軸国との戦いという戦争目的と戦後の国際協調の枠組みで合意大西洋憲章(たいせいようけんしょう)を発表しました。

日本との戦い

徴兵から逃れをようと国外に逃亡を試みる日本人兵

 

アジアでは、日華事変(にっかじへん)の長期化に苦しむ日本が援蒋(えんしょう)ルートの遮断と石油資源などを求め、東南アジアへの進出を強め、1940年に日本軍はフランス領インドシナ北部に進駐。さらに日独伊三国軍事同盟(にちどくいさんごくぐんじどうめい)を締結します。

 

ABCD包囲網の締め付けで資源不足に苦しむ日本軍の目標がマレー半島、シンガポール、ビルマのイギリス植民地に向かっているのは明白でありイギリスの対日感情は悪化します。1941年12月、日本軍はハワイ真珠湾奇襲と同時にマレー半島にも侵攻。イギリスは日本に宣戦を布告しました。

 

しかし緒戦においてマレー沖海戦でイギリスの誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズが日本海軍航空機に撃沈され、さらに香港、シンガポールというイギリスのアジア支配の拠点が日本に占領されると、植民地帝国イギリスの根幹が揺らぐ事態となります。

 

インド独立運動の激化

 

日本軍はアジア植民地人民の支持を得る為に、アジア諸民族解放のスローガンを掲げ、イギリス最大の植民地、インドを目指しビルマ侵攻を開始し、インド独立運動にも大きな影響を与えます。

 

連合国の要請を請けてチャーチル内閣は、インドを対日戦争に同調させるために戦後の独立を約束しますが、すでに第1次世界大戦で約束を反故にされたガンディーは

 

1942年8月、国民会議派を率いて、クイット・インディア(インドを立ち去れ運動)を主導し、民衆の反英闘争も激化しました。

 

日本との戦いは、国内で反戦の機運が強かったアメリカが真珠湾奇襲を契機に対日参戦する呼び水となり欧州戦線に決定的な意味を持ちます。世界一の工業国であり、大西洋を遠く隔て戦火にも遠いアメリカ合衆国の参戦は、枢軸側の戦況を位著しく不利にしました。

 

関連記事:ガンジーは何をした人?インド独立の父の生涯

関連記事:死者45万人!恐怖のスペイン風邪に日本はどう対処した?

 

アメリカとソ連の台頭

 

チャーチルはローズヴェルトと頻繁に会談を持ちつつ、ヒトラードイツとアジアにおける帝国主義日本という共通の敵に対する共闘体制を作り出しソ連については共産主義への嫌悪とスターリン独裁政治への不信感を持ちつつ、枢軸国に対する戦いの一点で妥協し協力を表明します。

 

イギリス、アメリカ、ソ連の協力はそのまま連合国の枠組みとなり、戦後政治をリードしていく事になりましたが、世界大戦後の戦後処理構想でリーダーになったのはアメリカ合衆国であり、戦災で半死半生のイギリスではありませんでした。こうしてイギリスは大戦中から世界のリーダーの地位を喪失し、世界は資本主義アメリカvs社会主義ソ連の二極対立の時代を迎えていきます。

 

ヤルタ会談と国際連合の発足

 

1945年2月、チャーチルはカイロ会談に続き、ヤルタ会談で再び、アメリカ、ソ連と三首会談を開催、国際連合の設立と対独戦後処理、ポーランド問題について協議し秘密協定としてソ連の対日参戦が決定されます。

 

1945年の4月〜6月、連合国50か国が参加したサンフランシスコ会議で国際連合憲章が採択され、イギリスは安全保障理事会常任理事国として中核となりました。サンフランシスコ会議の最中の5月8日にドイツは無条件降伏し欧州の戦争は終結。残る枢軸国は日本だけとなります。

 

連合国首脳は7月〜8月ポツダム会談を開き、日本に対してポツダム宣言を突きつけます。

 

関連記事:ポツダム宣言って何?戦後日本を決定づけた降伏文書を読んでみよう

関連記事:帝国主義って何?簡単に説明【まるっと世界史】

 

保守党が没落し労働党が政権を獲得

 

日本にポツダム宣言が出されていた7月、イギリスでは戦争終結を受けて10年ぶりの総選挙が開始されます。ところが戦争を主導したチャーチルの保守党は惨敗、労働党のアトリーが首相となりイギリス代表も交代しました。

 

保守党敗北の要因は、イギリス国民が戦争に疲弊し、変化を求めており戦争を勝利に導いたチャーチルよりも、重要産業の国有化や「ゆりかごから墓場まで」という社会保障制度の充実を訴え、新しい課題に取り組む事を鮮明に打ち出した労働党への支持が広がったためでした。

 

ポツダム会談にも途中からチャーチルに代わりアトリーが参加し、イギリスの戦後は労働党政権の社会実験から始まります。アトリー政権は福祉国家の建設という戦後ビジョンを掲げて実践し、植民地問題でも1947年8月15日のインドの分離独立。

 

パレスチナからの撤退と、1948年5月のパレスチナ戦争勃発、さらに1949年のアイルランド共和国のイギリス連邦からの離脱など大きな試練を迎えます。しかし、戦後の冷戦構造が深刻化し、否応なく北大西洋条約機構(きたたいせいようじょうやくきこう)の創設などで軍事費の増大が加速すると対外債務とあいまって国民生活を圧迫。

 

そのような局面での1951年10月の総選挙で労働党は敗北、50年代のイギリスは保守党長期政権の時代になります。

 

関連記事:コナン・ドイルとはどんな人?冤罪を解決した名探偵ってホント?

関連記事:ルシタニア号沈没で世界史はどんな変化が起きた?

 

大きな政府

 

1951年の総選挙で保守党は政権に返り咲き、チャーチル第2次内閣が成立し、それ以降の1950年代のイギリスは保守党の長期政権が続きます。50年代の保守党政権は経済政策を労働党政権から継承して、いわゆる「大きな政府」の路線を継続しました。

 

外交面では冷戦の深刻化で北大西洋条約機構を創設するなど軍事支出が増大し対外債務が膨らみます。一方軍事面では1952年10月3日、イギリスは核実験を実施しアメリカ、ソ連に続く3番目の核保有国となっています。

 

二度までも欧州を襲った大戦で西ヨーロッパ各国は傷つき、ヨーロッパを統合してアメリカやソビエトに対抗しようという動きが起きました。後のEUですが、イギリスはアメリカ合衆国との経済的な結びつきを重視し批判的で、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)やヨーロッパ経済共同体(ECC)には不参加でした。

 

長期の経済停滞

 

その後の保守党政権は、労働党内閣から引き継いだ福祉政策や国有化政策を基本的に踏襲して推し進め、ケインズ主義的財政、金融の運営で戦後経済の復興をほぼ回復しますが、半面で対外債務が増大し60年代にはポンド危機が起きます。

 

海外植民地ではイギリス連邦の強化を図り帝国再編を目論むものの、インドの独立を許し海外の植民地も次々と独立していきました。特に1956年10月29日のスエズ戦争では、フランスやイスラエルと結んでエジプトと高い敗北し、イギリスの権威を失墜させます。

 

1960年代後半に入ると、労働党と保守党が交互に組閣、一方でイギリス経済の停滞が続き67年に労働党のウィルソン内閣がポンド切り下げに踏み切り、長期の経済成長の停滞、イギリス病が進行していきます。

 

そのような最中、ウィルソン内閣はスエズ以東からのイギリス軍の撤退を表明、1971年のドル=ショック、1973年のオイル=ショックの影響を受け従来の孤立主義を捨て、1973年1月1日にEC加盟に踏み切りました。

 

関連記事:イギリスが7つの海を支配出来たのは「信用」のお陰だった

関連記事:紅茶が切れたイギリス軍は戦わないってホント?

 

北アイルランド紛争と新自由主義

 

1970年代には、北アイルランドでは多数派であるプロテスタント住民と少数派であるカトリック教徒の宗教対立が続き、プロテスタント側によるカトリック差別が激しくなり、アイルランド共和国軍(IRA)が公民権運動の影響を受けて活発化し武装闘争を展開。

 

1980年代には保守党のマーガレット・サッチャーが政権を獲得しイギリス病脱却の為に新自由主義に方針転換し規制緩和、民営化、福祉政策、社会保障の削減で大きな政府から小さな政府への改革を図ります。

 

後編まとめ

テレビを視聴するkawauso編集長

 

世界の工場と呼ばれ強力な海軍で七つの海を支配したイギリスですが、やがて後進のアメリカ合衆国とドイツ帝国に重工業分野において追い越されていきます。

 

19世紀後半ようやく統一されたドイツ帝国は植民地獲得熱が強烈であり、イギリスの3Cラインに対しドイツは3Bラインで激しく対立し遂には第1次世界大戦へ向かいました。

 

大戦でイギリスは辛うじてドイツに勝利したものの、それまでに積み上げた多くの富を失い、世界の覇権は新興のアメリカ合衆国に移動します。また、世界大戦は莫大な資金を蕩尽し、アメリカやイギリスの資本家は破産を恐れて、ドイツに対し立ち直れなくなるような多額の賠償金の請求を請求させました。

 

ドイツは巨額の賠償金負担に加え、アメリカでバブルが弾けた事による恐慌が世界へと波及。植民地を持つイギリスは関税障壁を高くしたブロック経済で生き残ります。

 

しかし、アメリカへの輸出に頼り持ち直していたドイツ経済は奈落の底に落ちていき、ヒトラー率いるナチスの台頭と第二次世界大戦へと世界を巻き込んでいきます。イギリスは第2次大戦にもアメリカ合衆国の参戦で勝利しますが、海外の植民地は次々と独立していき、かつての大英帝国は完全に解体され、世界は米ソ対立の時代へと移っていきました。

 

関連記事:塩がないとイギリス海軍は動かず!大英帝国と塩

関連記事:【薩摩vs大英帝国】薩英戦争は勘違いから始まったってホント?

 

ゆるい都市伝説WEB 特集バナー

 

 

はじめての三国志を、もっと読みたい方へ
Google検索であなたの優先ソースに登録しておくと、はじ三の記事が上位に出やすくなります。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso編集長

kawauso編集長

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

-まるっと世界史