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日本との戦い
アジアでは、日華事変の長期化に苦しむ日本が援蒋ルートの遮断と石油資源などを求め、東南アジアへの進出を強め、1940年に日本軍はフランス領インドシナ北部に進駐。さらに日独伊三国軍事同盟を締結します。
ABCD包囲網の締め付けで資源不足に苦しむ日本軍の目標がマレー半島、シンガポール、ビルマのイギリス植民地に向かっているのは明白でありイギリスの対日感情は悪化します。1941年12月、日本軍はハワイ真珠湾奇襲と同時にマレー半島にも侵攻。イギリスは日本に宣戦を布告しました。
しかし緒戦においてマレー沖海戦でイギリスの誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズが日本海軍航空機に撃沈され、さらに香港、シンガポールというイギリスのアジア支配の拠点が日本に占領されると、植民地帝国イギリスの根幹が揺らぐ事態となります。
インド独立運動の激化
日本軍はアジア植民地人民の支持を得る為に、アジア諸民族解放のスローガンを掲げ、イギリス最大の植民地、インドを目指しビルマ侵攻を開始し、インド独立運動にも大きな影響を与えます。
連合国の要請を請けてチャーチル内閣は、インドを対日戦争に同調させるために戦後の独立を約束しますが、すでに第1次世界大戦で約束を反故にされたガンディーは
1942年8月、国民会議派を率いて、クイット・インディア(インドを立ち去れ運動)を主導し、民衆の反英闘争も激化しました。
日本との戦いは、国内で反戦の機運が強かったアメリカが真珠湾奇襲を契機に対日参戦する呼び水となり欧州戦線に決定的な意味を持ちます。世界一の工業国であり、大西洋を遠く隔て戦火にも遠いアメリカ合衆国の参戦は、枢軸側の戦況を位著しく不利にしました。
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アメリカとソ連の台頭
チャーチルはローズヴェルトと頻繁に会談を持ちつつ、ヒトラードイツとアジアにおける帝国主義日本という共通の敵に対する共闘体制を作り出しソ連については共産主義への嫌悪とスターリン独裁政治への不信感を持ちつつ、枢軸国に対する戦いの一点で妥協し協力を表明します。
イギリス、アメリカ、ソ連の協力はそのまま連合国の枠組みとなり、戦後政治をリードしていく事になりましたが、世界大戦後の戦後処理構想でリーダーになったのはアメリカ合衆国であり、戦災で半死半生のイギリスではありませんでした。こうしてイギリスは大戦中から世界のリーダーの地位を喪失し、世界は資本主義アメリカvs社会主義ソ連の二極対立の時代を迎えていきます。
ヤルタ会談と国際連合の発足
1945年2月、チャーチルはカイロ会談に続き、ヤルタ会談で再び、アメリカ、ソ連と三首会談を開催、国際連合の設立と対独戦後処理、ポーランド問題について協議し秘密協定としてソ連の対日参戦が決定されます。
1945年の4月〜6月、連合国50か国が参加したサンフランシスコ会議で国際連合憲章が採択され、イギリスは安全保障理事会常任理事国として中核となりました。サンフランシスコ会議の最中の5月8日にドイツは無条件降伏し欧州の戦争は終結。残る枢軸国は日本だけとなります。
連合国首脳は7月〜8月ポツダム会談を開き、日本に対してポツダム宣言を突きつけます。
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保守党が没落し労働党が政権を獲得
日本にポツダム宣言が出されていた7月、イギリスでは戦争終結を受けて10年ぶりの総選挙が開始されます。ところが戦争を主導したチャーチルの保守党は惨敗、労働党のアトリーが首相となりイギリス代表も交代しました。
保守党敗北の要因は、イギリス国民が戦争に疲弊し、変化を求めており戦争を勝利に導いたチャーチルよりも、重要産業の国有化や「ゆりかごから墓場まで」という社会保障制度の充実を訴え、新しい課題に取り組む事を鮮明に打ち出した労働党への支持が広がったためでした。
ポツダム会談にも途中からチャーチルに代わりアトリーが参加し、イギリスの戦後は労働党政権の社会実験から始まります。アトリー政権は福祉国家の建設という戦後ビジョンを掲げて実践し、植民地問題でも1947年8月15日のインドの分離独立。
パレスチナからの撤退と、1948年5月のパレスチナ戦争勃発、さらに1949年のアイルランド共和国のイギリス連邦からの離脱など大きな試練を迎えます。しかし、戦後の冷戦構造が深刻化し、否応なく北大西洋条約機構の創設などで軍事費の増大が加速すると対外債務とあいまって国民生活を圧迫。
そのような局面での1951年10月の総選挙で労働党は敗北、50年代のイギリスは保守党長期政権の時代になります。
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大きな政府
1951年の総選挙で保守党は政権に返り咲き、チャーチル第2次内閣が成立し、それ以降の1950年代のイギリスは保守党の長期政権が続きます。50年代の保守党政権は経済政策を労働党政権から継承して、いわゆる「大きな政府」の路線を継続しました。
外交面では冷戦の深刻化で北大西洋条約機構を創設するなど軍事支出が増大し対外債務が膨らみます。一方軍事面では1952年10月3日、イギリスは核実験を実施しアメリカ、ソ連に続く3番目の核保有国となっています。
二度までも欧州を襲った大戦で西ヨーロッパ各国は傷つき、ヨーロッパを統合してアメリカやソビエトに対抗しようという動きが起きました。後のEUですが、イギリスはアメリカ合衆国との経済的な結びつきを重視し批判的で、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)やヨーロッパ経済共同体(ECC)には不参加でした。
長期の経済停滞
その後の保守党政権は、労働党内閣から引き継いだ福祉政策や国有化政策を基本的に踏襲して推し進め、ケインズ主義的財政、金融の運営で戦後経済の復興をほぼ回復しますが、半面で対外債務が増大し60年代にはポンド危機が起きます。
海外植民地ではイギリス連邦の強化を図り帝国再編を目論むものの、インドの独立を許し海外の植民地も次々と独立していきました。特に1956年10月29日のスエズ戦争では、フランスやイスラエルと結んでエジプトと高い敗北し、イギリスの権威を失墜させます。
1960年代後半に入ると、労働党と保守党が交互に組閣、一方でイギリス経済の停滞が続き67年に労働党のウィルソン内閣がポンド切り下げに踏み切り、長期の経済成長の停滞、イギリス病が進行していきます。
そのような最中、ウィルソン内閣はスエズ以東からのイギリス軍の撤退を表明、1971年のドル=ショック、1973年のオイル=ショックの影響を受け従来の孤立主義を捨て、1973年1月1日にEC加盟に踏み切りました。
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北アイルランド紛争と新自由主義
1970年代には、北アイルランドでは多数派であるプロテスタント住民と少数派であるカトリック教徒の宗教対立が続き、プロテスタント側によるカトリック差別が激しくなり、アイルランド共和国軍(IRA)が公民権運動の影響を受けて活発化し武装闘争を展開。
1980年代には保守党のマーガレット・サッチャーが政権を獲得しイギリス病脱却の為に新自由主義に方針転換し規制緩和、民営化、福祉政策、社会保障の削減で大きな政府から小さな政府への改革を図ります。
後編まとめ
世界の工場と呼ばれ強力な海軍で七つの海を支配したイギリスですが、やがて後進のアメリカ合衆国とドイツ帝国に重工業分野において追い越されていきます。
19世紀後半ようやく統一されたドイツ帝国は植民地獲得熱が強烈であり、イギリスの3Cラインに対しドイツは3Bラインで激しく対立し遂には第1次世界大戦へ向かいました。
大戦でイギリスは辛うじてドイツに勝利したものの、それまでに積み上げた多くの富を失い、世界の覇権は新興のアメリカ合衆国に移動します。また、世界大戦は莫大な資金を蕩尽し、アメリカやイギリスの資本家は破産を恐れて、ドイツに対し立ち直れなくなるような多額の賠償金の請求を請求させました。
ドイツは巨額の賠償金負担に加え、アメリカでバブルが弾けた事による恐慌が世界へと波及。植民地を持つイギリスは関税障壁を高くしたブロック経済で生き残ります。
しかし、アメリカへの輸出に頼り持ち直していたドイツ経済は奈落の底に落ちていき、ヒトラー率いるナチスの台頭と第二次世界大戦へと世界を巻き込んでいきます。イギリスは第2次大戦にもアメリカ合衆国の参戦で勝利しますが、海外の植民地は次々と独立していき、かつての大英帝国は完全に解体され、世界は米ソ対立の時代へと移っていきました。
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