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インド独立運動とガンジーの台頭
一方でイギリス領として残った北アイルランドでは多数派であるプロテスタント系住民による少数のカトリック教徒に対する差別が激しくなりカトリック側ではアイルランドとの統一を要求する急進派のアイルランド共和国が活動を続けますが、分裂が続き運動は停滞していきます。
一方でイギリスの直轄植民地であったインド帝国では、高まるインド反英闘争を抑えるために1905年にベンガル分割令を出しヒンドウー教徒とイスラム教徒の分断を図ります。
それに対してインド国民会議が翌年に軽かった大会を開催して自治の要求を鮮明にしました。インドの独立運動はイギリス当局の懐柔と弾圧で辛うじて抑えられていましたが、第1次世界大戦後にインド統治法・ローラット法による強圧的な支配が始まるとあらたに国民議会の指導者となったガンディーが1919年から第1次非暴力・不服従運動を開始。
それに対しイギリスはアムリットサール事件では力で運動を抑えさらにインド統治法で地方政治での一定の自治を認める事で一応の収束を図りました。
イギリス海洋帝国の落日
イギリスは第1次世界大戦で国力を大きく消耗し、アメリカ経済への依存を強め、世界経済の覇権はアメリカに移行します。国際政治ではアメリカ大統領ウィルソンの提唱した国際連盟の常任理事国として重要な役割を果たし、労働党政権下ではロシア革命で成立したソ連を承認。
1922年にはワシントン会議に参加し、ワシントン海軍軍備制限条約に調印しますが、それは主力艦の比率をアメリカと同じにする内容でイギリスの海軍力が世界を支配していた時代が終わった事を示していました。
世界恐慌とブロック経済
ヴェルサイユ条約で巨額の賠償金を課せられたドイツですが、アメリカの支援で経済を復興させようとしていました。しかし1929年にそのアメリカで世界恐慌が発生し、ドイツはもちろん、ドイツからの賠償金で経済を立て直そうとしていたイギリス・フランスをも直撃します。
イギリスでは恐慌対策として労働党のマクドナルドが対応しますが、マクドナルドが打ち出した緊縮財政のための失業保険削減は労働党内部でも反対が多く紛糾。マクドナルドは労働党を離れて保守党と協力し、1931年8月にマクドナルド挙国一致内閣が成立します。
挙国一致内閣では、内需を守るために1931年9月には金本位制からの離脱、保護関税政策の導入に踏み切り、1932年にはオタワ連邦会議を開催しイギリス連邦を抱き込んでのブロック経済を敷きましたが、保護貿易は世界の貿易量を減少させ、不況を加速させました。
世界恐慌の影響で従来の政党政治への失望が広がる中、イタリアでは、ベニト=ムッソリーニが、国家と国民の鉄の団結による統制経済で世界恐慌を乗り越えようと訴えて、クーデターに成功しファシズム政権を樹立。
ファシズムは隣国のドイツに波及し、1930年代、アドルフ=ヒトラーのナチスが台頭、ヴェルサイユ体制打破を叫んで国際連盟を脱退、1935年には再軍備を宣言し、欧州の脅威に成長していきました。
また、資本主義国イギリスに取っては、社会主義経済を推進するソビエト連邦も大きな脅威だと考えられるようになり、ドイツよりソビエトの台頭を危惧する世論が形成されます。
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インドで独立運動の機運が高まる
同じ頃インドでは、マクドナルド労働党が、インドに一定の自治を認める事に舵を切り、1929年に第1回円卓会議を開催します。しかし、世界恐慌の影響で、農村の貧困が一層進んだインドでは、国民会議派の中のネルーなどの若い活動家が完全独立を要求し会議をボイコット。
1930年1月からガンディーが塩税に反対して、塩の行進を開始し、第2次非暴力・不服従運動が起きて反英闘争が盛り上がりました。これに対しイギリスは、ムスリムとヒンドゥー教徒の対立を利用した巧みな分割統治で運動を抑圧します。
ドイツ融和策が事態を悪化させる
1933年にナチスドイツはドイツの政権を掌握、ヒトラーは総統に就任し再軍備を宣言し、ヴェルサイユ体制から離脱し領土拡張路線を取ります。しかし、イギリスの対応はドイツよりもソビエトの脅威に向けられ、1935年6月の英独海軍協定を締結するなど融和対策を取りました。
1936年スペインで人民戦線内閣が成立すると、フランコ将軍などの軍が反乱を開始しスペイン戦争が勃発します。ヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリア、ファシズム陣営は、ただちにフランコ軍に対する軍事支援を開始。
人民戦線政府はイギリスとフランスに支援を要請しますが、イギリスのボールドウィン首相は、フランスのブルム首相に働きかけ不干渉政策を取りました。理由は、人民戦線政府は共産党に支援されており、ソ連も支援を表明しているので、それに手を貸す事は欧州の共産勢力の拡大につながるというものです。
こうして戦争はフランコ軍の優位で進み、1938年までに人民戦線はほぼ壊滅、スペインにはフランコ軍事独裁政権が誕生しました。1938年、ヒトラーはオーストリア併合を実行し、さらにチェコスロバキアに対しズデーテン地方の割譲を要求します。
これは、ドイツ人の民族統一や民族自決という一見すると正当な要求を装っていたため、イギリス首相ネヴィル=チェンバレンはヒトラーの要求を認める事でそれ以上の領土要求を抑えヨーロッパの平和を実現できると判断、ミュンヘン会議でズデーテン割譲を容認しました。
しかし、国際連盟に諮られる事もなく、当事者であるチェコスロバキアも参加できない会議で一方的に決められた決定は、ゴリ押しすれば領土は簡単に拡大できるという自信をヒトラーに与え、より侵略を加速させるという逆の結果を産み出したのです。
ヒトラーは1939年ポーランドに対してダンツィヒの割譲とポーランド回廊の自由通過を要求します。これにより、ミュンヘン会談がヒトラーの領土欲の阻止に繋がらなかった事が明らかになり、チェンバレンへの批判が高まりこうした輿論に抗しきれなくなったチェンバレンは、ドイツを非難しポーランド支援を明言しました。
ヒトラーはイギリスの態度に不信感を持ち、ソ連のスターリンとの間で独ソ不可侵条約を締結した上で1939年9月、ポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まります。
イギリスはフランスと共に宣戦を布告しますが、ポーランドを救援する軍隊を送ることなく静観の構えを取りました。しかし、ヒトラーはポーランドをソ連と分割し終えると、その矛先を西側に向け、1940年4月デンマーク・ノルウェー侵攻を開始。
これは直接にイギリスへの脅威となったのでイギリス海軍はドイツのノルウェー上陸を阻止しようとしますが失敗。チェンバレンは敗北の責任を取り辞任しました。
第2次世界大戦とチャーチル挙国一致内閣
1940年5月10日、長年ヒトラーへの警戒を呼び掛け、政府の融和政策を批判していたウィンストン=チャーチルが首相に就任。労働党と挙国一致内閣を組織します。
ちょうどその日、ドイツ軍のオランダ・ベルギー進行が開始、英仏連合軍はたちまち追い詰められ、イギリス陸軍はダンケルクに取り残されました。チャーチルは、民間漁船まで動員してダンケルクのイギリス兵士の救出に成功すると、本土防衛体制を強化します。
ドイツ軍の快進撃は止まらず、5月中にフランス軍を制圧してフランスの北半分を占領、ドーヴァー海峡を越えてイギリス本土を目指し、その前哨戦としてイギリス本土に激しい空爆を加えました。イギリス最大の危機でしたが、イギリス国民は空爆に耐え、イギリス空軍も善戦して制空権を守ったため、ドイツ軍はイギリス本土上陸を断念します。
「バトルオブブリテン」を指揮し、ドイツ軍上陸を阻止した事でチャーチルの戦争指導は国民の支持を得て、ドイツ敗戦までの長期政権を維持しました。
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アメリカの参戦とソビエトとの同盟
欧州では、1941年、英国上陸に失敗したヒトラーが西部戦線の行き詰まりを東部で打開しようと不可侵条約を結んだソ連に侵攻します。これによりソ連は対ドイツでイギリスと結ぶ必要が産まれ、英ソ軍事同盟が締結されました。
一方でアメリカ合衆国は武器貸与法を制定してイギリスなど反枢軸国への武器支援を決めて実質的な参戦を果たします。1941年8月9日、チャーチルはフランクリン=ローズヴェルトと太平洋会談をおこない、枢軸国との戦いという戦争目的と戦後の国際協調の枠組みで合意大西洋憲章を発表しました。
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