明元皇后郭氏は魏の三代皇帝曹叡の2番目の皇后です。
曹叡の死後、宗族の曹爽が権力を握り、郭氏は飾りとなり司馬懿のクーデターの大義名分や司馬昭による皇帝殺しである曹髦弑逆でも郭氏の名前が大義名分に利用されました。
また、毌丘倹や鍾会も郭氏の命令と詐称して反乱を正当化しています。最初はお飾りだった郭氏ですが、徐々に政治力を発揮し、司馬懿の死後に司馬師が曹芳を廃して、曹操の子の曹據を推したのに対し序列を問題にして曹操の孫の曹髦を推しました。
2人は対立しますが、司馬師が折れる形で曹髦が即位します。
その後、曹髦も司馬昭を排除しようとして賈充の指示を受けた成済に殺害。その殺害の理由も「曹髦が郭氏の命を狙ったので」とされました。今度は司馬昭が曹髦を庶民の格式で葬ろうとすると、司馬孚が猛反対して郭氏に上奏。
郭氏の詔で王の格式で曹髦を葬ります。こうして、利用されたり、利用したりしつつなんとか司馬氏の勢力拡大を阻止しようとした郭氏ですが、司馬昭が蜀を滅ぼした辺りで力尽き264年に亡くなりました。
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