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曹操が魏という大国を作り上げるまで、安寧悠々自適といった訳ではありません。数々の敵がその道を阻もうとし、色々な方面で敵はいたことでしょう。
時にそんな敵すらも懐に抱え込んだ曹操ですが……ずばりもうやっちゃうかな?とか考えたんじゃないの?
という訳でアンケート「もう少しで曹操に誅殺されたのでは?と感じる人物」。いったい誰が選ばれたのか?
「だいたい曹ソウ殿がいけない」司馬懿
「後々の魏の結末を見るとね。曹操が亡くなるまでに抹殺できてれば」
「我々は歴史知ってるせいもあるけどね、まあ司馬懿でしょ」
「曹操が長生きして、司馬懿の叛意を勘づいていたら間違いなく抹殺したでしょうね」
引用元:はじめての三国志TV
断るなら殺す、とまで迫られて出仕させられ、息子の友人になったと思ったら「首が一周するとか今の内に始末しなきゃ(超意訳)」とまで言われた司馬懿。
後々、彼の子供たちが魏から簒奪を行ったと知ったら……司馬懿よりも、その一家がヤバいかもしれませんね。ただ司馬一族自体は司馬防への恩義もあるから……一族は残るのかな?
悪来&息子の仇・賈詡
「間接的とはいえ息子と悪来を殺したカクですかね」
引用元:はじめての三国志TV
曹操が古の豪傑、悪来と重ね合わせて「悪来」と呼んだ典韋、曹昂や曹安民まで失った戦い。
失ったものが大きすぎる戦いでしたが、曹操は賈クを許しただけではなく、懐に入れて重用。後には後継者問題まで相談して、結果、後継者になった曹丕からも評価されたという賈ク。
「もしかしたら張繡と賈詡って、三國志で一番プレッシャーを感じながら働いてたのかも!笑」
引用元:はじめての三国志TV
一歩間違えれば処刑も有り得る中で、生き残ったのは本当に凄いことです。何せ張繍の方は曹丕に嫌味を言われて自殺した……という説もあるくらいからですね。実は賈クはギリギリの線を生き残っていたのではないでしょうか。
清廉潔白な子の四友・陳羣
「曹植を跡継ぎにしてたら始末してそう」
引用元:はじめての三国志TV
陳羣と言えば人材登用制度「九品官人法」の制定に携わった人物で、司馬懿と同じく曹丕の四友。
郭嘉の不品行を良く咎めていた、そしてあの荀彧の娘婿さんです。
何気に初期は皇帝としては良く仕事をこなしていたと言える曹叡が訳の分からない行動に走ったのは陳羣死後……ということを考えると、曹操も曹丕もその陳羣の性格を良く知った上で重用していたのかもしれません。
ただ曹丕でなく曹植が後継者となっていたら…陳羣もまた、舅と同じ道を辿らされたのでしょうか?
そう考えるとやはり賈ク先生はすごいな!(こなみ)
建国の功労者・董昭
「荀彧の死が憂いがあっての謎の自殺であったとされていますが演義の解釈でよく分からなくなっています。しかしながら、董昭との意見の対立があったのは確かのようで~もしも自殺の原因が董昭の策略だったら粛清だった?」
引用元:はじめての三国志TV
荀彧の死は、実際のところは良く分かっていません。
ただ通説として「荀彧はあくまで漢の家臣」「曹操が野心を見せ始めた」「二人は対立し始めた」……「対立したのは、董昭らが曹操を焚き付けた」と考えると、漢の忠臣としての荀彧が自害したのはある種、董昭らに関係があるとも考えることができます。
董昭の本意がどこにあるかは分からないので何とも言えませんが、もしかしたら魏の建国が終わってから董昭の元に「空の箱」が送られた可能性もあったのかも……?
その他
「才ある人は謀殺しない気がするので その他にしました」
「有益な才があればそうそう粛正はしなさそう。だから粛正して構わない人は粛正したという意味で「その他」」
「曹操のことだから計画通りにkillしたい人物はその通り行ってると思うので。その他に入れました」
引用元:はじめての三国志TV
他にも色々な人の名が挙げられていましたが「しない方向」のこれらのコメントをピックアップしてみました。曹操の誅殺はあくまでその場の私情ではなく、計画、後のことまで考えての誅殺と考えると、そう誅殺は起こらない、つまり処刑されたということは「そういうこと」、という意見には何度も頷いてしまいましたね。
そう考えると、陶謙への攻撃は曹操は本当に怒っていたんだな……と、何とも感慨深くなってしまう筆者でした。
三国志ライター センのつぶやき
さて「誅殺」とは罪人を殺すこと。
つまり殺される側には往々にして殺される理由があるものとします。そうでなければ理由なき虐殺であり、暴君となってしまいます。逆に言うと「理由なくては殺されない」ので、権力者に仕えるにはやはり身の振る舞いというのは大事ですね。
そう思うと……やっぱり賈ク先生はすごいな!(リピート)どうにもここに収着した筆者でした。どぼーん。
参考引用:はじめての三国志TV