全琮は揚州銭唐に豪族全柔の子として誕生します。若い頃から機を見るに敏で、将軍としても勇敢な人物であり、度々手柄を立て遂には孫権に将来性を見込まれ、娘の孫魯班を娶らされます。
ところが、その辺りから全琮は次第に黒い本性を発揮していき一族の勢力を拡大し、政敵を追い落としていく呉の闇将軍へ変貌していくのです。
この記事の目次
全柔の子として銭唐に生まれる
全琮は字を子璜と言い呉郡銭唐の人です。
父の全柔は霊帝の時代に孝廉に推挙され尚書郎右丞に輔任されますが董卓の乱で官を捨てて帰り、揚州が別駕従事として採用し、詔書にて会稽東部都尉を現地で拝命しました。
孫策が呉に至ると全柔は兵を挙げて味方し孫策は上表して全柔を丹陽都尉とします。次に孫権が車騎将軍になると全柔を長史とし桂陽太守に移りました。
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米を飢えた人々に与え私刑を免れる
全柔は、かつて全琮に米数千斛を与えて呉に至り市で交易させた事があります。しかし、全琮は交易品の米を皆人々に与えてしまい船を空にします。もちろん全柔は激怒しますが、全琮は首を垂れて
「私が考えますに交易は緊急ではありませんが、豪族は吊るしあげられ私刑を受ける状態であり、その為に、人々に米を大盤振る舞いして困難を回避しました。緊急ですのでお知らせする暇もありませんでした。」
全柔は全琮を評価しこれを奇貨とします。息子はただものではないと密かに将来に期待したのです。このように全琮は機を見るに敏であり、社会の雰囲気を掴む事に長けていました。
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中原の人士を救済し大きな名声を得る
当時、揚州には長江を渡って全琮を頼る人々が多く百を持って数える状態でしたが、全琮は家を傾けて救済し、持ち物で共有しないものはなく、その為、遠近に名声を轟かせました。
後に孫権が全琮を奮威校尉とし、兵数千人を授けて山越を討たせ、そこで兵員を募集して精兵数万を獲得すると牛渚に出屯し、偏将軍に昇進しました。これも、単純な篤志家ではなく、乱世で名を挙げる準備だったのでしょう。
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関羽を討つ謀を孫権に上奏
西暦219年、関羽が樊城と襄陽を囲むと全琮は上疏して関羽を討つ謀を述べます。しかし、すでに孫権は呂蒙と密かに関羽を討つ事を決めていて、あえて全琮の上表を伏せて応えませんでした。
関羽が捕らえられると孫権は公安で酒宴を開き、全琮に言うには「君が前にこの事を述べ、私は答えなかったが今日の勝利はまた君の功績でもあるのだ」かくして全琮を陽華亭侯に封じました。
西暦222年、魏が大船団で洞口に出撃すると、孫権は呂範に諸将を指揮させて防御させ魏と呉は対峙します。魏がしばしば快速船で呉の船団に突撃し、全琮は常に完全武装して孫権の近くに仕え休みませんでした。
暫くして敵の数千人が江中に出撃したが、全琮はこれを撃破し魏将尹盧を捕まえて縛り首にします。この功績で全琮は綏南将軍に移り、銭唐侯に封じられました。さらに、225年には、節を仮されて九江太守を兼領します。
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孫権の娘を娶り皇族の道へ
西暦228年、孫権が皖に至り全琮と輔国将軍陸遜に曹休を討たせて石亭でこれを破ります。この時、丹陽・呉・会稽の民がまた賊となり属県を攻め落としました。孫権は三郡の剣祖の地を分けて東安郡とし全琮が太守を兼任し、賞罰を明らかにし募兵したので数年の間に1万人の人間を得ます。孫権は全琮を召して牛渚に移したので東安郡太守を辞職しますが、帰路で故郷の銭唐に立ち寄り大金を散財したので、また名声を得たようです。
西暦229年、孫権は皇帝に即位、全琮は衛将軍、左将軍、徐州牧と異動し、孫権の娘である孫魯班を娶りました。これと同じ時に朱拠も孫魯班の妹の孫魯育を与えられて帝室に連なる事になります。
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国家の体面を重んじた全琮
西暦233年、全琮は歩騎5万を率いて六安に出征すると六安の民は皆、逃げていき諸将は兵を分けて住民を捕らえようとします。
しかし、全琮はそれを制し
「無理矢理に民衆を捕らえるのは、いやしくも大国のする事ではなく、例え一時は利益があっても長期的に見れば失う物が多くなる。私は民を捕らえなかった事で罪を得ても、いやしい真似をして国家の名誉を傷つけまいぞ」
こうして目先の利益に逸る諸将を制して人間狩りを止めさせました。
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嘘をついて朱桓を発狂させる
237年魏の盧江郡主簿の呂習が偽の投降をもちかけ呉軍を誘き出そうとします。全琮は朱桓と共に身柄受け取りのために侵攻しますが、計略に気づいたので撤退しました。
盧江太守の李鷹は追撃をかけようとしますが軍中に朱桓の節蓋と軍旗があるのを見つけ朱桓を恐れて軍を動かせませんでした。全琮と朱桓コンビの歯車は当初上手く噛み合っていました。
その頃、孫権は全琮と朱桓の元に偏将軍の胡綜を送り詔勅を授けて特別に軍事に参加させていました。
ある時、全琮と朱桓の間で作戦を巡り言い争いが起きます。原因は朱桓が負けず嫌いで他人から命令を受ける事を恥としていたからで、全琮の物言いに上から目線があってカチンときたのかも知れません。
失言に気づいた全琮は弁解しようとし、
全琮「そそそそそ…、それはボ、ボクが言ったんじゃないよジャ〇アン。そうだ!胡綜が大帝様の命令だって、ボボ、僕に押し付けたんだよ」と胡綜に責任転嫁します。
朱桓「なぁにい!あの若僧の胡綜がこのワシに対し指図しただとぉ!!おのれェ…青二才め!こうなったら、ギッタンギッタンのメッタメタのバッキバキのグッチャグチャにしてくれるうううううううううウキイイイイイイ!!」
全琮(ボク、知~らない、しーらない!)
朱桓は胡綜を殺そうとしたので、側近の1人が異変に気付き胡綜に知らせて避難させます。そのために朱桓は胡綜を殺し損ねましたが、胡綜を逃がした側近を斬り殺し、それを諫めた副官まで刺し殺しました。
いくら怒っていてもやりすぎで、まさに精神錯乱でですが、ここまでしてただで済むはずもなく朱桓は捕らえられ病人として建業に送られ治療を受ける事になります。
孫権は朱桓が錯乱した事実を知っていましたが、これまでの功績と能力を惜しんで罪を不問とし子の朱異に軍を率いさせ朱桓の元には医者を派遣し回復すると再び濡須城に戻しました。しかし翌年、朱桓は病気の為に62歳で死去しました。
元々の原因を造った全琮は、特に処罰されませんでしたが、悪女孫魯班の影響か、それとも元々黒い野心が宿っていたのか、次第に全琮は目的の為には手段を選ばない悪党へと変貌していきます。
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芍陂の役を切っ掛けに張氏&顧氏VS全氏が対立
241年、全琮は大都督に昇進、同年に魏の揚州の拠点である寿春に侵攻。芍陂の堤防を決壊させ、兵糧庫を焼き住民を捕虜にします。堤防決壊ですから、ここで多くの住民が水死したのではないかと思います。六安で処罰されても住民を強制連行しないと庇った全琮はどこに消えたのでしょうか?
この芍陂の役は、二正面作戦の大掛かりなもので、荊州方面では朱然が魏の樊城を包囲し、諸葛瑾に柤中を占領させていましたが、蜀漢で戦いに呼応する筈だった蔣琬が蜀の消極派を説得できず、蜀漢の支援は受けられませんでした。
その為に、戦いは一進一退となり、魏呉両軍ともに消耗が激しくなり全琮は241年4月には敗走しています。
しかし、、張休・顧承、顧譚等がなおも奮戦して敵を押し止め、5月に皇太子の孫登が死去すると、全緒と全端は王凌等を反撃して破り魏軍を退却させ6月には呉軍もそう退却しました。
ところが戦後の恩賞は張休や顧承に厚く、全氏一族に薄いものでした。こうして、張休、顧譚、顧承と、全端ら全氏一族は芍陂の役の恩賞を巡り対立します。
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二宮の変で張氏&顧氏を追い落とす
全琮は張氏と顧氏を追い落とそうと執念を燃やしますが、顧雍が丞相をしている間は手が出せませんでした。
しかし、西暦243年に顧雍が在職のまま死去し、その後任として荊州を統治していた陸遜が任命されますが、孫権は陸遜が建業に入る事を認めなかったので建業には豪族の勢力を均衡するバランサーは不在になります。
ここで孫権は、皇太子として孫和を立てながら異母弟の孫覇も対等に可愛がるという意味不明な行動を開始しました。
また、この時孫和には、妻の孫魯班と対立していた孫魯育がついていて、孫魯班は対抗して孫覇を守り立てていました。さらにこの時、孫和派には、張休、顧譚、顧承という芍陂の役で全琮が割を食わされたと恨んでいる政敵がいます。
こうして全琮は、妻が守り立てている孫覇を担ぐ事で、張休、顧譚、顧承を追い落とす事が可能になる一石二鳥状態が生まれました。
孫魯班はモウロクした孫権を騙して孫和と生母の王夫人を讒言、孫権がそれを信じて孫覇を寵愛すると、全琮は自分に敵対した陸遜を追い落とす為に讒言を繰り返し、孫権は陸遜に問責の手紙を送りつけて憤死に追い込みました。さらに、全琮は張休、顧譚、顧承を流刑、そして左遷に追い込みます。
二宮の変では全琮の子全奇が孫覇を肩入れしすぎ、孫覇と共に自害を命じられました。それでも、全琮は246年、共闘していた歩隲と共に全琮は大司馬、歩隲は丞相に任じられ、結果として張氏、顧氏を追い落とす事に成功しました。
暗闘を勝ち抜いた全琮ですが、大司馬にある事3年で249年に死去します。勝者になった全琮ですが、呉は内輪もめで大きく勢力をすり減らし以後は二度と勢力を盛り返す事はなかったのです。
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何故か悪党扱いされない全琮
人生の前半はともかく、後半は明らかな悪党と化していく全琮ですが、三国志演義では悪役と言う位置づけになっていません。大きな理由は、陳寿が正史三国志を執筆する上で参考にした呉書の執筆者である韋昭が、全氏の権勢を憚り全琮の悪事を記録しなかった為であるようです。
その期間は西暦233年から246年の13年間もあり、朱桓を発狂させた話や芍陂の役で堤防を決壊させて住民を水死させた話や恩賞を巡る顧氏との争い、二宮の変の暗躍までがスッポリと省かれています。
陳寿は韋昭の呉書を丸写ししたので全琮を丹念に調べなかったようで、そのせいで全琮はただの呉の重臣のような扱いで終ってしまい地味な人物の扱いです。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は全琮について調べてみました。前半はなかなか有能な人ですが、朱桓を陥れた辺りからダークになっていき、二宮の変では呉の命運に関係なく一族の利益を図る闇将軍に変貌しています。
しかし、陳寿が韋昭の呉書を丸写しにし、あまり全琮の悪事を網羅的に見ていないので、三国志演義では悪役を免れる事になったようです。
参考文献:正史三国志
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