正史三国志諸葛亮伝によれば、蜀の初代皇帝・劉備は臨終の際、重臣の諸葛亮にこう遺言しました。「君の才は曹丕魏の文帝の十倍だ。きっと国を安んじ、最後には大事を成就させることだろう。
もし我が子が補佐するに足る人物ならば、これを補佐してやってほしい。もし才がないならば、君が自ら取れ」
これは劉備の諸葛亮に対する特別な信任を示す言葉として解釈されることが多く、三国志の見せ場の一つとなっています。しかしこの言葉、どうも既視感がありませんか。呉の孫策が亡くなる時に、張昭に同じようなことを言っていませんでしたっけ。
孫策の遺言
孫策は江東で地盤を築き、勢力拡大を図っていたさなかに刺客の襲撃を受け、その傷がもとで亡くなりました。正史三国志張昭伝の注釈に引用されている『呉歴』によれば、孫策は臨終のさい、重鎮の張昭にこう言っています。
「もし仲謀(孫策の弟、孫権のあざな)が事業をになうに足りない人物であれば、君が自らこれを取れ」
劉備の諸葛亮への遺言にそっくりですね。自分の後継者に領地を治める器量がなければあなたが領地を取ってくれというのは、重鎮への遺言の常套句だったのでしょうか!?
他にもあった、領地を譲ろうとする話
劉備が荊州の劉表のところに居候していた時も、似たようなことがありました。正史三国志先主伝の注釈に引用されている『魏書』によれば、劉表は病気が重くなった時、劉備に荊州を託そうとしてこう言っています。
「我が子は不才であり、諸将もみな死んでしまいました。私が死んだ後はあなたが荊州を統治してください」
自分の子供がいたのに、いそうろうの劉備に地位を譲ろうとしたんですね。劉備は皇叔で左将軍で歴戦の勇者であり、荊州でも一軍を有し北方防衛を担っており、人望もありました。劉表が劉備に地位を譲ろうとしたとすれば、この時の劉備はのちの劉備政権下の諸葛亮や孫策政権下の張昭に近い存在感(名士の人望)があったのでしょう。
うっかり領地を取って火だるまに
劉表から荊州を譲られた時には、劉備は「賢いお子様方じゃないですか。今はご病気のことだけ考えて下さい」とはぐらかし、荊州を譲り受けませんでした。正史三国志先主伝によれば、これより前、劉備は徐州の陶謙のところにいた時にも臨終間際の陶謙から徐州を譲られています。
その時には劉備は断り切れずに徐州を受け取ってしまいました。劉備は徐州の人物すべてをまとめることができず、周囲にも油断のならない勢力があったため、劉備はさんざん戦火にまかれた挙げ句、火だるまになって領地を放棄するはめになりました。この時の痛い記憶があったから、劉表から荊州を譲られた時には受けなかったのかもしれませんね。
自勢力内に有力者がいる場合の常套句
劉備、孫策、劉表、陶謙。いずれも、自分の臨終の際に、自勢力内の有力者に領地を譲るような発言をしています。本来ならば自分の子供(孫策の場合は弟)に後を継がせたいところでしょうが、子供を凌ぐ実力を持つ者が自勢力内にいる場合には、無理に子供に後を継がせることは難しいという判断によるのでしょう。
まずは有力者を呼び寄せて、君が領地を取れと言う。すんなり受け取るようなら、領地を譲ってくれた人の子供のことを大事にしてくれるでしょう。辞退するならば、子供の味方になって子供を立ててくれるでしょう。いずれにしても、子供の身は安泰です。
この手続きを踏まずにむりやり子供に後を継がせた場合、子供をしのぐ実力を持つ相手がどう出るか分かりません。力尽くで子供を排除するかもしれません。これは最悪の事態です。
君が取れ、と言っておけば、領地は失うかもしれませんが、子供が大事にされるだけまだましです。こういう発想で「君が取れ」が常套句のようになっているのかなと考えてみましたが、いかがでしょう。(孫策と劉表の件は正史にはありませんが、それらの出典の『呉歴』も『魏書』も魏や晋の時代に書かれたものであるため、当時の常識を反映したものとしてとらえることができます)
三国志ライター よかミカンの独り言
劉備が諸葛亮に「君が国を取れ」と言ったのは、諸葛亮に対する特別な信頼を示す美談のように思われがちですが、当時としてはさほど珍しい遺言ではなかったようです。
至極現実的な手続きに過ぎないのではないでしょうか。諸葛亮周りの出来事ばかりが美しく見えるのは一体誰のせいなんでしょうね。正史の陳寿からして蜀びいきですから、根が深いです。あ、陳寿のえこひいきについては、こちらの過去記事をどうぞ……↓
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