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太公望とはどんな人?全ての軍師の祖になった遅咲き賢者

2014年11月21日


 

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鱸魚を釣る左慈

 

釣りの名人の事を太公望(たいこうぼう)と言いますよね?

 

太公望

 

実は、この太公望は古代中国の恐らく最初の軍師である人物の尊称なのです。太公望こと、呂尚(りょ しょう)は、姜子牙とも言われ、姜族の首領だったとも伝わります。ですが、その生涯は伝説に包まれているので、ここでは、広く伝わっている太公望呂尚の逸話や人物像についてわかりやすく紹介してみます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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 びっくりするような遅咲き!天下の賢者 太公望  呂尚(りょ しょう)

戦う太公望

 

呂尚(りょ しょう)の家は、元々は黄河の氾濫を鎮めて王になった聖人禹の補佐をした大人物だったらしいのですが、呂尚(りょ しょう)の代では落ちぶれていました。呂尚は頭脳明晰ですが、世渡りの出来ない人で、飲食店をしていたのですが、碌に客商売も出来ず、妻には無能と罵られて家を追い出される有様。その間にすっかり白髪になった呂尚は渭水という場所で釣りをしていました。

 

そこに、殷の紂王の重臣である、姫昌(きしょう:後の文)が通り掛かりました。実は姫昌は、狩猟の帰りでしたが、占い師に「今日は獲物は獲れないが、天下の大人物を得るだろう」と予言されます。

 

釣りをする太公望

 

予言通りに手ぶらな姫昌が馬車で渭水の前を通ると、白髪の呂尚が釣りをしています。姫昌は、一目見るなり、呂尚がタダモノではないと悟ります。それで、呂尚に近寄り、天下の趨勢を聴いてみると一々感服する事ばかりです。

 

姫昌は、「彼こそ、祖父の古公亶父(ここうたんぽ)が待ち望んでいた人物だ」として、呂尚を軍師として迎え馬車に乗せて領地に連れ帰りました。

 

 呂尚の軍師デビュー

 

こうして、呂尚は役立たずの飲食店の主から、周の軍師に抜擢されます。やがて、姫昌は死にますが、呂尚は息子の姫発(きはつ:後の武王)を盛り立て殷討伐の軍を起こして幾多の手柄を立てて殷を滅亡に追い込むのです。

 

呂尚は手柄によって、斉の国を与えられ、その最初の王になります。斉は戦国七雄の一国で、宰相管仲や斉の桓公のような覇王を出しました。そのような経緯もあり、呂尚の名も後世まで轟いたのです。それにしても、役立たずの老いぼれジジイが一夜にして、帝王の軍師とは、人生は最後まで生きてみないと分からないを体現したような人物ですね。

 

悪い顔をしている諸葛亮孔明

 

三国志で言うと、世に出ずに隠遁していた所は、諸葛孔明に、、そして、風采が上がらず役立たず呼ばわりされていたのは、龐統士元に似ていなくもないですね。でも、一番似ているのは、ゴメンナサイ、三国志と全然関係ないですが、元々は雑貨屋のアルバイト店員をしていて、南北戦争がはじまると頭角を現して、北軍の総大将になった、ユリシーズ・グラントに似てます。

 

※2020年5月30日にkawauso編集長が「太公望(たいこうぼう)」についてわかりやすく追記しました。

 

太公望とはどんな人?(2020年5月30日追記)

内容に納得がいかないkawauso様

 

釣りが好きな人を太公望(たいこうぼう)と言ったりします。そのルーツは、紀元前11世紀に存在した中国の伝説の賢者の名前でした。こちらの太公望、伝説の聖王、周の文王(ぶんおう)に仕え、暴虐な紂王(ちゅうおう)を倒して周王朝を開く事に大きく貢献し、功臣として斉国の開祖になっています。今回は、そんな天下の賢者太公望の伝説に包まれた生涯を史記をベースに解説します。

 

老人になってからリストラにあった太公望

三国志演義の作家 羅貫中

 

太公望は東海の上の方で誕生します。本当の名前は、姓を(きょう)、氏は(りょ)(いみな)(しょう)(あざな)子牙(しが)と言い、姜子牙とも呼ばれたりします。彼の祖先は四獄(しごく)となり()を助けて水土を広げて功績がありましたが、()・夏王朝の頃に(しん)(りょ)の土地に封じられ、段々と子孫が増えて枝分かれしていき、太公望の家は、無位無官の庶民に落ちていました。

華佗(華陀)

 

こうして、太公望は肉屋、或いは酒屋として生計を立てていましたが、書物を読む事が好きなだけで、他は全て不器用で上手く行かず、老人になってから妻に家を追い出されました。人生の黄昏時(たそがれどき)に全てを失ったリストラ爺さんが太公望だったのです。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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