西暦192年、献帝を擁し、横暴の限りを尽くした菫卓は、義理の息子である呂布の手によって、呆気なく暗殺されました。
三国志演義では、美女貂蝉による連環の計で、正史では、菫卓の侍女に手を出した呂布が、菫卓に露見するのを恐れて、「その前に殺してしまえ」と唆した王允の暗殺計画に加担したと言われています。
王允の計略は、上手く行ったかに見えましたが、この王允には政治的な欠陥が存在していました。
王允の誤った選択
菫卓を憎悪するあまり、菫卓の一族ばかりか、生命が惜しいばかりに菫卓に従っていた有能な人物まで連座して嵐のように処刑したのです。長安の人々は、そんな王允の行き過ぎを嫌がるようになり、王允の政治力は、急速に衰えを見せていきます。さて、菫卓の配下には、涼州時代からの部下、李傕、郭汜がいました。
李傕、郭汜の反撃
菫卓が討たれた事を知った二人は、最初は王允に降伏しようと思いました、ところが、伝聞で知ったのは、王允の狂ったような親菫卓派の大粛清でした。
「こらあ、エライ事になった、、この調子では、俺達も打ち首だぞ」
「くそったれが、それなら、こっちから行ったろうじゃねいか!」
李傕と郭汜は、破れかぶれで、長安に攻めのぼりました。長安は菫卓の暴政で疲弊しきり、呂布がいるとは言え、まともな防戦も出来ない状況にありました。
なんと、折角、菫卓の暴政から抜け出したと思った漢王朝は、今度は菫卓の残党である李傕・郭汜の支配下に入るのです。
呂布は、菫卓の首を持って長安を脱出して袁術の下に逃げて行き、王允は李傕・郭汜に殺害されました。李傕と郭汜の政治は、菫卓に勝るとも劣らない酷いものでした。
両者は、長安を東と西に分割して治めていましたが、治安を維持するどころか、部下が略奪行為を行っても放置しました。
暴政の影響で長安は酷い事に
そのような暴政の為に、長安は食糧不足に陥り、価格が暴騰、市街には、餓死者や腐乱死体が溢れ、飢えた人々は、お互いに喰い合うという阿鼻叫喚の地獄絵図になったと言われます。
やがて、李傕と郭汜は、ささいな事から、お互いに争うようになります。この内乱でまた、長安の街を荒廃させ死体が溢れる事になります。
さて、同僚の張済という男の仲裁で仲直りした二人は、廃墟と化した長安を捨てて献帝を洛陽に戻そうという計画に賛同します。
しかし、最初は、計画に同意した李傕と郭汜ですが、計画をした菫承、楊奉、韓暹(かんせい)達が帝を独占するつもりではないか?と疑い、途中で献帝を長安に引き戻そうとします。
もちろん、これには菫承も楊奉も反対し、戦闘が勃発、敗れた郭汜は、逃亡して李傕の下へ逃げのびてしまうのです。
帝を失い、拠点の長安も疲弊した李傕・郭汜は勢いを失い西暦198年に、討伐されて処刑されます。
李傕と郭汜の手から、献帝を奪還した菫承達ですが、醜い権力闘争は、揚奉、張済、菫承、韓暹の間でも続きます。
曹操の覇王の道の第一歩
献帝が洛陽に戻った事をいち早く知ったのが曹操でした。兗州を手に入れ、30万の青州兵を配下に加えた曹操は、「これぞ千載一遇の好機」と部下の曹洪を派遣して、献帝を迎えに寄こします。
菫承は当初、袁術と組んで、曹洪の進軍を阻止しますが、今度は、献帝を護衛してきた将軍の間で権力争いが勃発します。
菫承は、将軍達の中で、自分が優位に立つべく、一度は排除した曹操に接近しこれを洛陽に引き込んでいます。
かくして曹操は、西暦196年に、献帝を保護下に入れます。荒廃した洛陽から、献帝を本拠地である許昌に移動させた曹操は、いよいよ、袁紹や、袁術、公孫瓚のような群雄を追いぬき、天下に号令を出せる立場に立ったのです。