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稀代の豪傑 魯粛(ろしゅく)|演義と正史では大違い?

2015年4月24日


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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有能過ぎる魯粛

孫権 冠

 

ある会議では、降伏派が勢いを以て孫権を説得している時に、魯粛は、何も言わずに黙って聞いていましたが、孫権がトイレに立つとすかさず、その後を追って説得しています。

 

魯粛:「殿、よくお考え下さい、、降伏派は呉が魏に併合されても曹操の家臣として活躍できましょうが、殿はそうはいきません。常に反乱を疑われて、いつかは誅殺されましょう。曹操に降伏するのは殿には割があいませんぞ」

 

孫権は、用を足しながらそれを聴いて、

孫権:「魯粛、実は余もそう思っていた、何も言わなかったが、正直降伏を主張する連中には失望しておった」

 

とポロっと本心を打ち明けたのです。

 

孫権の本音を聞いた魯粛は勇気100倍

遅れて来た孫権 英雄

 

魯粛は、孫権の本心を聴いて勇気100倍になり、降伏派の張昭達を打ち負かす自信を得たのです。赤壁の戦いの後は、劉備と荊州の領有を巡って呉は関係がギクシャクします。西暦214年に、劉備が益州を併合すると、孫権は、「約束通り、荊州を返してくれ」と劉備に言いますが、劉備は拒否しました。

 

怒った孫権は、呂蒙に兵を与えて、桂陽、長沙、零陵を奪還するように命令を出しました。

 

劉備も関羽を派遣して、荊州を守るように兵を出します。一触即発のこの時に、魯粛は関羽に使者を送り、それぞれの兵力を100里下げて、武器を持たずに話会おうと持ち掛けます。

 

呉と蜀が争うと笑うのはこの人

笑う曹操

 

今、呉と争うのは得策ではないと思っていた関羽も提案にのり、魯粛は、関羽と激論を戦わせて反対派を怒鳴りつけて、一歩も引かず、ついに、荊州の南部である、桂陽と長沙二郡を関羽に無血で割譲させました。演義のお人よしの魯粛とは似てもにつかない豪胆ぶりです。

 

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孔明からも信頼されていた魯粛

魯粛

 

あの関羽から譲歩を引き出すとは、猛将でも難しいでしょう。

 

魯粛、孫権、孔明

 

魯粛は217年に、46歳の若さで死去します、孫権は人目もはばからず慟哭し、孔明も知らせを聴いて悲しみ、個人的に喪に服したと言われます。

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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