曹操の13人の妻を一挙公開! その4です。
以下にご紹介する女性たちは、
本来、「〇〇という子供を生みました!」
としか書けない女性たちなのですが、それだけでは味気ない。
そんなわけで、彼女たちについては、
かなりのフィクションです。ほぼ創作しています。
みなさまからも、
「私もこんな女性だったと思うよ」
「いやいや違う!」
など、様々なご意見をうかがえましたら幸いです。
妻No.10 周姫
・フリガナ:しゅうき
・子供:長男、曹均(そうきん)219年没
息子の曹均は、曹操の弟である曹彬(そうひん)の養子となって
樊安公となり、
曹操配下の中では最強武将のひとりといえる張繍の娘と結婚しました。
歴戦の猛者張繍が、数ある曹操の息子たちの中から
「わが娘を嫁がせましょう!」と認めたことから、
曹均は武力に優れた立派な息子であったと思われます。
母親の周姫も、さぞ鼻が高かったことでしょう。
しかしながら、夫曹操よりも先に、息子の曹均は病で亡くなってしまいます。
それでもすでに、孫息子3人に恵まれており、
家系が途絶えるという憂き目には遭いませんでした。
また、孫のうちの一人は、尹夫人の生んだ曹矩(子なし若死に)の
跡継ぎとして迎え入れられたので、
周姫は、尹夫人と良好な関係を築き、王宮の中でも
安定した暮らしをしていたと考えられます。
妻No.11 劉姫
・フリガナ:りゅうき
・子供:長男、曹棘(そうきょく)若死に
「劉」姓と聞くと、この当時はみんな、
「我こそは漢王室の子孫なり!」ととりあえず言ってみるような
イメージがあるのは、劉備玄徳のせいでしょうか。
晩年になって権力に執着を見せ始めた曹操が、
そんな自称劉家から一人のうら若い女性を後宮に入れていたとしても
不思議はありません。
劉姫は曹操の息子を生むという幸運に恵まれますが、
その子は早世してしまいます。
養子をつけて家を存続させることもなく、与えられた領地は没収。
劉姫も、悲しみのあまりに若くして亡くなってしまったのかもしれません。
妻No.12 宋姫
・フリガナ:そうき
・子供:長男、曹徽(そうき)242年没
息子の曹徽は曹操の弟の曹玉(そうぎょく)の跡を継ぎ、
さらに孫の曹翕(そうきゅう)は晋王朝にも仕え、医学の道に進んだといいます。
曹操の息子を生んだことで、安定した生活が送れた女性なのではないでしょうか。
妻No.13 趙姫
・フリガナ:ちょうき
・子供:長男、曹茂(そうぼう)わりと長生き
息子の曹茂は、曹操の晩年に生まれた子供でありながら、
曹操から愛されることはありませんでした。
おそらく曹操とは親子ほども離れた歳の趙姫は、
「この色ボケじじいが!」
と心中怒りでいっぱいだったのではないでしょうか。
そんな趙姫に育てられた曹茂が、性格がまっすぐであるはずがありません。
頑固で傲慢に過ぎる性格をしていたため、
曹丕から疎まれ、
生存する曹操の息子の中では唯一、王位が与えられませんでした。
それでも、曹丕から抹殺されずに放っておかれたことを見ると、
取るに足りないと判断された、残念な子だったのでしょう……。
曹茂は、曹叡の代になってようやく王位を与えられますが、
年をとって性格が丸くなったのか、
それとも趙姫と曹茂がそろって
「王位をちょうだいよ!」
と曹叡に迫ったためなのか、想像するのも楽しいですね。
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