曹操の13人の妻を一挙公開! その3です。
以下にご紹介する女性たちは、
ほぼ、子供のことだけしか記録が残っていません。
そこで、子供や周囲の状況から
「このような女性だったのでは?」という推測に基づき、
説明を膨らませていますので、ご了承ください。
妻No.7 王昭儀
・フリガナ:おうしょうぎ
・子供:養子、曹幹(そうかん)216年~261年
曹操は晩年になり、陳姫(ちんき)という女性を寵愛しました。
陳姫はすぐにみごもり、216年に曹幹を生みます。
それはちょうど、曹操が魏王に即位したお祝いムードのさなかでした。
曹操はたいへん喜び、陳姫と曹幹を溺愛しますが、
曹幹3歳のときに、陳姫は病を得て亡くなってしまいます。
自らも足腰が弱ってきていた曹操は、大打撃を受けました。
そこへ、「わたくしが曹幹の母となりましょうぞ!」と声を上げたのが
王昭儀でした。
「昭儀」というのは、皇后に次ぐ後宮の女性の身分です。
曹操が魏王になったことで、曹操の妻たちはそういった称号を得たわけですが、
実を言うと、後漢時代に昭儀という位は廃止されていました。
ここでわざわざ昭儀という位を曹操が復活させたのは、
溺愛する曹幹の育ての親としてふさわしい身分を彼女に与えるために
あとから付与した、という経緯があったのではないでしょうか。
そんなわけで、昭儀という高い位を手に入れた王昭儀は、
非常に世渡り上手で、時勢を読む力に優れていました。
子供を生まずに、あとから現れて、卞皇后に次ぐ位を手に入れたのです。
古くから曹操に連れ添う夫人たちは、面白くないに決まっています。
しかし王昭儀は、曹丕につくことで、
自らの地位を盤石化させました。
それから4年後、曹操は亡くなり、曹丕の時代がやってきました。
曹丕は、兄弟たちの中で、王昭儀の養子である曹幹を最も厚遇しました。
王昭儀も何不自由ない暮らしができたはずです。
妻No.8 孫姫
・フリガナ:そんき
・子供:
長男、曹彪(そうひょう)195年~251年
次男、曹上(そうじょう)若死に
三男、曹勤(そうきん)若死に
長男曹彪が195年に生まれていることから、
卞皇后や環夫人とほぼ同時期に曹操の妻になったと考えられます。
しかし、三人もの男児を生んだのにも関わらず、
「夫人」と呼ばれることがなかったことから、
身分の低い女性であったことは間違いありません。
しかしながら、卞皇后の出自も決してよいとはいえませんが
正妻となり、最後は皇后位まで上り詰めました。
それに比べて、なぜ孫姫は夫人に昇格できなかったのでしょうか。
おそらく、性格が嫉妬深く、自己顕示欲が強かったため、
曹操にその辺りをうるさがられたのでしょう。
それでも、
卞夫人や環夫人の子供たちよりもあとに次男、三男が生まれた
ことを見ると、曹操の寵愛は薄れたわけではないようです。
孫姫は、性格に難があるものの、
年をとっても若々しく美しい女性だったと考えられます。
長男の曹彪は57歳のときに、司馬懿に対するクーデターに
巻き込まれて自殺に追い込まれます。
いい歳をして、「俺も皇帝になれるかもっ」と浮かれたところに、
母親孫姫の強気で浅はかな性格を垣間見ることができます。
妻No.9 李姫
・フリガナ:りき
・子供:
長男、曹乗(そうじょう)若死に
次男、曹整(そうせい)218年没(若死に)
三男、曹京(そうけい)若死に
三人もの男児に恵まれながらも、全員若死にしてしまいました。
次男の曹整が、203年に袁譚の娘と結婚したという記録があります。
おそらくこの時点で、長男の曹乗は亡くなっていたのでしょう。
当時の曹操は、袁一族を滅亡させるべく戦っている最中だったので、
当然ながら曹整と袁家の婚姻は謀略の一部であり、
翌年には離縁させられます。
曹整は若死にしたとされるため、このときの結婚は、
まだ幼い年齢のときのことだったと思われます。
長男を失った直後に、さらに幼い次男を政治の道具として扱われた
李姫の心中はいかばかりか、涙なしには語れません。
それでも、曹操との間に三男曹京を授かっていますから、
李姫はおとなしく、夫に従順で、体の弱い女性だったのではないかと考えられます。
早世した子供たち三人がすべて、養子をつけて領地を存続させるといった
配慮がなく、家系が途絶えてしまったことから、
母親である孫姫自身も、短命であった可能性があります。
その4に続きます。
この記事を書いた人:東方明珠
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東方明珠(とうほうめいしゅ)
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通称「はじさん」のはじっこライター東方明珠です。
普段は恋愛系のノベルやシナリオを書いています。