曹操の妻はどんな人達だったの?13人を紹介 Part1

13人の妻達(曹操)

曹操には、13人の妻と、32人の子供がいたといいます。

これを、多いと言うべきか、少ないと言うべきかは、迷うところです。

 

楊貴妃との恋で有名な唐時代の玄宗皇帝には、

記載されているだけでも后妃27人に、子供が59人いましたから。

 

曹操も魏の初代皇帝という位置づけならば、それほど……騒ぐことでも……。

いえ、乱世である状況や、当時の人口を考えたら、やっぱり多いですけれどね!

 

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曹操の妻達が表に出ない理由

秦夫人

 

曹操はたくさんの妻を持ちましたが、

彼女らを政治に立ち入らせることはありませんでした。

 

そのため、妻たちは、三国志の中ではまったくの日陰の存在であり、

子供の名前くらいしか記録がない方ばかりです。

子供の性格やその後の待遇など、

周囲の状況から「このような女性だったのでは?」という推測も交えて

ご紹介したいと思います。

 

 

妻No.ゼロ 劉夫人

劉夫人

 

・フリガナ:りゅうふじん

・子供:

長男、曹昂(そうこう)197年没

次男、曹鑠(そうしゃく)197年以前に没?

長女、清河長公主(せいかちょうこうしゅ)

 

曹操の最初の妻(妾)です。

曹操がまだ若く身分も低いころの妻ですので、正室としては数えません。

若くして亡くなったといいますが、

身分の低さにも関わらず、三人の子宝に恵まれたことから見ても

若き曹操から深い愛情を注がれた女性であったことは確かです。

 

丁夫人の侍女で、丁夫人と共に曹操のもとへ嫁いでやって来て

妾となった、という説もあるようです。

 

 

妻No.1 丁夫人

丁夫人

 

・フリガナ:ていふじん

・子供:なし

 

劉夫人が若くして亡くなったため、曹操の第一の妻となりました。

しかし子宝に恵まれず、

劉夫人の生んだ子供たち、曹昂・曹鑠・清河長公主の養母となり、

良き妻、良き母として、子供たちを立派に養育します。

 

特に、長男の曹昂を溺愛していましたが、

197年、宛(えん)城の戦いで、

曹操が未亡人鄒氏(すうし)と火遊びを楽しんでいたところを夜襲され、

それをかばった曹昂が戦死したという知らせを受け、

曹操のことが許せなくなります。

 

曹操は必死になだめますが、丁夫人は泣きわめいて曹操をなじります。

面倒くさくなった曹操は、丁夫人を実家へ帰し、しばらく距離を置きます。

 

時が過ぎ、「そろそろ迎えに行こうっと」と曹操は丁夫人を訪れ、

甘い言葉をささやきますが、

丁夫人は機織りに夢中なふりをして曹操を無視。

曹操は仕方なくあきらめて、丁夫人と離縁します。

 

その後の曹操は、性格に暴虐さが増し、

家臣たちは曹操が丁夫人という心の大きな支えを失ったことを嘆いたそうです。

 

曹操は離縁して生計を失った丁夫人の今後の生活を保障するために、

新たな嫁ぎ先を探してやろうとしますが、

丁夫人もその父母も固く断り、再婚はしませんでした。

 

 

妻No.2 卞皇后

正妃 卞夫人

 

・フリガナ:べんこうごう

・子供:

長男、曹丕(そうひ)187年~226年

次男、曹彰(そうしょう)223年没

三男、曹植(そうしょく)192年~232年

四男、曹熊(そうゆう)221年あたりで没?

・生没年:161年~230年

 

琅邪郡開陽県の出身で、実家は貧しく、

少女の頃から歌舞音曲で生計を立てる歌妓でした。

20歳の頃、譙(しょう)に滞在中、

25歳の曹操と出会い、彼の妾となります。

 

曹操はどこへ行くにも卞皇后を連れてゆき、

彼女の巧みな歌と踊りを楽しみました。

 

187年には長男曹丕を生み、ますます曹操の妾としての地位を盤石化させます。

卞皇后は倹約家でつつましく、

影から曹操を支える、たいへん立派な女性でした。

そのため、197年に正妻の丁夫人が曹操と離縁をすると、

繰り上がって正妻の地位につきます。

 

丁夫人とは、その後も親交を続け、生活の援助をしました。

また、目上の女性として敬うことを忘れず、

曹操の不在時には城に招いて歓待もしたそうです。

 

曹操と丁夫人を会わせないようにしたところが……賢い!

 

卞皇后は、自分の生んだ子供と、異腹の子供とを分け隔てなく育てました。

魏建国後に皇后位を追贈され、武宣卞皇后と称されます。

 

 

妻No.3 環夫人

環夫人

 

・フリガナ:かんふじん

・子供:

長男、曹沖(そうちゅう)196年~208年

次男、曹宇(そうう)わりと長生き?

三男、曹據(そうきょ)わりと長生き?

 

徐州の彭城の出身で、曹操との間に3人の男児をもうけました。

 

193年、曹操は、父親曹嵩(そうすう)が殺されたことに逆上して、

徐州で大虐殺をおこないます。

女子供見境なく惨殺し、犠牲者は数十万にも及び、

泗水(しすい)の流れは死体で埋もれて止まってしまったといいます。

 

環夫人は、その徐州の出身です。そのとき徐州に滞在していたのなら

命はなかった可能性が高いので、それより以前に

曹嵩の紹介で、曹操の妻となっていたのかもしれません。

 

故郷を壊滅状態にした曹操を恨むことなく、その3年後には

曹沖を授かり、その後も続けて3人の男の子を生みます。

 

子供たちはどの子も聡明で謙虚に育て上げ、

同母弟たちを次々と陥れた曹丕も、環夫人の子供たちには

一目を置いていたようです。

曹操も、環夫人の子供を最も溺愛しました。

 

曹操が亡くなり、曹丕の代になったあとも、

環夫人は曹丕と良好な関係を築き、太妃と贈名されました。

 

曹丕の実母、卞皇后は正義感が強く、実子曹丕の歪んだ性格を常に

いさめていたため、

曹丕はもしかすると、義母である環夫人に心を寄せていたのかもしれません。

 

 

その2に続きます。

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この記事を書いた人:東方明珠

東方明珠 三国志

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東方明珠(とうほうめいしゅ)

■自己紹介:

はじめての三国志、

通称「はじさん」のはじっこライター東方明珠です。

普段は恋愛系のノベルやシナリオを書いています。

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