三国志やその解説本を読んでいると、しばしば『孫子』(そんし)という人物、
あるいは書物の名前が出てきますよね。
歴史に興味のない人でも、その名前くらいはどこかで聞いたことがあるでしょう。
『孫子』とは、戦争の仕方について説明した書物であり、その書物を記した人物の尊称でもあります。
戦乱に明け暮れた中国の春秋戦国時代(キングダムの時代)や
三国時代(三国志の時代)、『孫子』は重要な意味を持っていました。
歴史上の名だたる人物たちが、戦争に勝利するためにこぞって孫子を学んだのです。
このシリーズでは、孫子について初心者でも分かりやすく解説していきます。
『孫子』を知れば、三国志やキングダムはもっと面白くなるはずです。
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この記事の目次
『孫子』は誰が、いつごろ書いた書物なの?
実は『孫子』の作者については、20世紀半ばを過ぎるまで、良く分かっていませんでした。
歴史上、『孫子』と呼ばれる人物は二人いたことが知られていました。
一人は、今から2500年ほど前の春秋時代と呼ばれる時代、
呉(ご)の国に仕えた孫武(そんぶ)という人物。
もう一人は孫武より150年ほど後、
戦国時代と呼ばれる時代に斉(せい)の国に仕えた孫臏(そんびん)です。
孫臏は孫武の子孫であるとされています。
現代の 『孫子』と三国時代の『孫子』は違った
現代に伝わる『孫子』は全部で13篇からなるものですが、
三国志の時代の少し前に書かれた歴史書『漢書(かんじょ)』によれば、
『孫子』は82巻からなる、
現代に伝わるものとはまったく違う構成の書物であるとされていました。
また、孫武の子孫であるとされている孫臏が別個の書物を残した記録もあり、
結局のところ、『孫子』の成立については不明な点が多かったのです。
しかし、1972年に中国山東省にあった墳墓から2つの書物が発見され、
『孫子』に関する解釈は劇的に変化することになりました。
発見された書物のひとつは、現代に伝わる『孫子』近い内容のもので、
これは『竹簡孫子』と呼ばれています。
そしてもうひとつの書物は『孫臏兵法』
……つまり、孫臏が書いた兵法書でした。
この発見で、孫臏が書いた書物は『孫子』とは別のものであったことが判明しました。
現代の『孫子』という書物の成立
現代では、『孫子』という書物の成立はおよそ次のとおりであると考えられています。
- 春秋時代、孫武が現在の『孫子』の原型となった書物を著した。
- 戦国時代、孫武の子孫の孫臏が孫武の『孫子』に肉付けをして、現代に伝わるものに近い形にした。
- 孫臏以降も、『孫子』はさまざまな人の手で改訂や肉付けが繰り返され、80巻以上になる大著となってしまう。
- 三国時代に整理され、全13篇にまとめられる。これがほぼ現代に伝わる『孫子』になっている。
『孫子』の作者が分からなくなっていた原因を作った犯人は誰だ?
『孫子』が誰によっていつ頃書かれたものなのか、
1972年の発見以前は良く解っていなかったことは前述のとおりです。
これは、現代人が読める形で残っている『孫子』(全13篇)と、
中国の歴史書で語られている『孫子』(全82巻)が、あまりにかけ離れているのが最大の原因でした。
考えてもみてください。
全部で80巻以上もあるされる大著が、たった13篇まで削られちゃってるんですよ?
言ってみれば現代に伝わっている『孫子』は、
歴史上存在していたとされる『孫子』の要約程度しか分量がないってことです。
こりゃあ、二つの『孫子』がまったく別物と考えられても不思議じゃありません。
一体誰がそんな余計なこと……いえいえ、そこまで徹底的に『孫子』を整理したのでしょうか?
三国時代に整理され、全13篇にまとめられた孫子は、
『魏武注孫子(ぎぶちゅうそんし)』と呼ばれています。
これは“魏の武帝が注釈をつけた孫子”という意味です。
魏の武帝……いったい誰のことでしょうか?
『孫子』の作者を分からなくした曹操くん
西暦220年、曹操の息子である曹丕は、
後漢王朝最後の皇帝である献帝から禅譲を受ける形で、
魏の初代皇帝の地位に就き、文帝と名乗りました。
皇帝の地位についた曹丕は、父であった曹操に「太祖武帝」という号を贈ります。
……そうです。
『魏武注孫子』とは、あの曹操が整理し注釈をつけた『孫子』のことだったのです。
曹操が自らの手で整理し、注釈をつけた孫子を現代人である私たちが読むことができる……
三国志ファンとしては、なんとも感銘深いと思いませんか?
次回から、『孫子』の内容について、解説していきたいと思います。乞うご期待!!
次回記事:【はじめての孫子】第2回:どうして『孫子』はビジネスマン必携の書と言われるの?